そして、老人が個室に入ったのが先々週のこと。個室に入ったということは・・・・・・。考えたくもない。一方で、死を受け入れるような気にもなっていることは事実だ。けれども、もっと生きたい、という気持ちの方が勝っていることも事実だ。
人間ってのは、我儘だな。自分はその中でもとりわけ我儘な法だな、と老人は苦笑した。そして、こんなときにも花火を観ることができるなんて、自分はなんて贅沢な人間なんだろう、と思った。
「おい、ダイキは」
考えて出た言葉ではなかった。けれども、老人は不意に孫の名前を呟いていた。妻が思わず反応する。
「ダイキって、孫のダイキくんのことですか」
「そうだ。ダイキに会いたい」
思い出したのは、花火のせいかも知れない。どうも花火は人を感傷的にする力があるのかも知れない。
「なに言ってるんですか。ダイキくんはもう何年も会っていないじゃありませんか。こんなときになにを言い出すかと思ったら」
「いや、本当に、会いたい。こんなときだからこそ、会いたいんだ」
我儘言って、と妻は半分呆れた。けれども夫はわたしに我儘を言ったことなんて、ほとんどなかったと妻は思い、半分嬉しかった。
「わかりましたよ。いちおう、連絡はしてみますけど会いに来てくれなくてもガッカリしないで下さいよ。ダイキくんにはダイキくんの事情がありますから」
妻は、ほとんど初めて我儘を言ってくれた夫に嬉しく思いながら、わざと眉根を寄せながら小さな鞄から携帯電話を取り出した。妻も、直接の電話番号を知らないから、息子の電話番号をメモリーから呼び出し、通話ボタンを押した。
5
初めて訪れたマンションの屋上から眺める花火は、彼が知っているどの花火よりも綺麗だった。上げようとした右足を、思わず引っ込めた。どうせ死ぬのなら、この花火を観終わってからでもいいだろう。男は、額から汗が流れるのを拭いもせず、ひたすら花火を眺めていた。
あぁ、そういえばあの時も花火を観ていた。あれは、もう10年も前のこと。初恋の彼女も交えて男女6人で観た花火のこと。いや、あの時自分は花火なんか観ていなかった。花火に照らされる彼女のことばかり観ていた。こんなどん底の俺にだって青春時代はあったのだぞと、男はその場で座り込み、特等席からひたすらに花火を眺めた。
彼女、いま頃どこで、なにをしているのだろう。この花火を観ているだろうか。
花火の星、一つ一つが滲んで輪郭がぼんやりとしてきても、ずっと花火を眺めていた。
そして、花火が終わり、しん、とした街並みを相変わらず眺めていた、滲んだ街明かりをぼんやりと眺めていた。
不意に、ポケットの中から携帯電話がバイブレーションで着信を伝えていた。