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ある夏の日のことだった。
時候の挨拶では、“暑中”と“残暑“のちょうど境目あたりの日。そんな日の、もうすぐ19時になろうとしている時刻のこと。日中の暑さは峠を越えたとはいえ、それでも世の中の景気とは裏腹に、高値止まりのような最高気温は35℃を超えた。夕方のニュースでは「今日で猛暑日は7日連続で、明日も猛暑日になるでしょう」とカッチリとしたスーツを着たアナウンサーが涼しい顔で伝えていた。そんな昼間の熱気は、太陽が名残惜しそうにオレンジの光を残して落ちても収まるどころか、バトンタッチしたアスファルトやコンクリートが溜め込んだ熱気を、いまになって放出しているような暑さが続いていた。
そんな中、若い男が車を走らせていた。運転席でハンドルを握る男は、ふと、前の信号が青色から黄色にスライドして点灯したのを確認すると、ブレーキを踏み、前の車に続いて車を停めた。彼は、暗い気持ちと共に「ふぅ」と溜息を吐く。車内は彼の溜息と、エアコンの吹き出し口から吐き出される白い冷気と、スピーカーから流れるラジオの音声が満たしていた。
「それでは次のナンバーです」とDJの声が聞こえると同時に、イントロが流れる。アイドルグループの曲だ。
「人生、捨てたモンじゃねぇか」
彼は独り車内で呟くと、信号は青に変わる。前の車が動き出したその時、ふと左斜め前方に人間の業を誇示するような、ひと際高い建物が彼の視界の端に見えた。たぶん、バベルの塔。いや、それはタワーマンション。
「あそこにしよう」
彼は独り、再び車内で呟くと反射的にウインカーを左に出し、ほぼ同時にハンドルを切った。
彼は、昨日まで自動車部品の工場で働いていた。期間工として働いていた彼は、このところの不景気の煽りを受け、次の契約期間満了を持って契約は更新しないと伝えられた。おかしいとは思っていた。まだ景気が良かった去年なら、1ヶ月前には契約更新の書面を取り交わしたからだ。しかし、今年はなかった。
それが、先週のこと。
そうなって初めて彼は途方に暮れた。なぜなら、彼は職を失うのと同時に住む場所も失ったのだ。6畳一間という、狭いながらも帰る場所があるとないとでは、水と油ほど大きく違う。期間工なら、文字通り期間限定の仕事ということを頭に入れながら、社員登用試験に励むなり、他の就職先を探すべきだったのだが、あとの祭り、アフターカーニバル。
そして、声が大きい者と、要領がいい者だけが契約を更新した。彼は、まったくその逆だった。昨日、寮を出るときに、同じように憂き目に遭った者に「この処遇は不当だ。こんど会社を訴えるから、皆で力を合わせて頑張って団結しよう」と声を掛けられたが、キミも契約を更新した人と、人種としてはそれほど変わらないと思うと、彼は曖昧に小さく首を横に振った。そして、2年前に10年落で買ったステーションワゴンに乗り込むと、昨晩は道の駅の駐車場で夜を明かした。