どうせ時間は腐るほどあると、寮を追い出されてから下道を走り続けていた。できるだけカネを遣いたくなかったという理由もある。あでどもなく走ったつもりだったが、気が付くと、実家に向かっていた。ただし、実家に帰るわけにはいかない。ほとんど家出同然に彼は実家を飛び出していたのだ。いまさら帰ったところで、自分の居場所なんてないに決まっている。
いま、彼の運転するステーションワゴンの荷台には、2つの段ボール箱と1つの衣装ケースが積まれている。これが、彼の持ち物全てだった。特に物欲が強い方ではなかったが、自分が工場で働いていた、およそ4年の月日がその僅かな箱に詰まっていると思うと、自分はどれだけ身軽だったのかと侘しい気持ちになる。自分の命がこんなにも軽いものだったのではないかと少し、勘違いするような彼の心境である。
信号を左折すると、荷台の段ボールがスーッと滑り出し、車内のどこかに軽くぶつかる音がした。その軽い音から、自分の命を投影しているものだと一瞬でも思ったものが、疎ましく思った。
目的のタワーマンションの車寄せを、様子を見るつもりで通り過ぎ、50メートルほど進んで路肩に車を停めた。サイドブレーキを引き、キーを捻ってエンジンを切る。彼は車を降りると、愛着のある車と、荷台に積んだ荷物が少し惜しい気持ちで振り返る。いや、墓場まで持って行ける荷物はないんだ。増してオンボロ車なんて、三途の川の渡り賃にもならないだろうと、前を向きタワーマンションのエントランスへと足を進めた。できるだけ怪しまれないように「俺はここの住人なんだ」と自分に言い聞かせながらエントランスに足を踏み入れる。入口は、お決まりのようにオートロックだったが、住人らしい女性が子供と一緒に出てきたタイミングで開いた自動ドアに素早く身体を滑り込ませる。そして、エレベーターのボタンを押すと、誰にもすれ違うことなく最上階に着く。屋上への入り口らしい格子戸には鍵がかかっていたが、周囲を見回し誰も見ていないことを認めると、ドアノブに足を掛けて彼は格子戸を乗り越えた。
屋上には誰もいない、フェンスもない。生温い風が、前髪を揺らし、額にときどき触れるのが鬱陶しい。じんわりと汗もかき始めていた。彼は、さぁ一息に逝ってしまおうと、屋上の端まで歩を進める。さすがに12階建ての屋上だけあって、遠くまで街の明かりが見渡せる。あの明かりのところまで行けるかなと彼は一歩進もうと、足を上げようとした瞬間だった。
そのとき、花火が上がった。
2
19:00
最初の一発は大きなものが夜空に咲いた。一瞬にぱぁっと咲いて散る花。
河原には、レジャーシートを敷いた多くの人々が寝転びながら、あるいは座って、また、ある人は立ちながら同じ空を見上げていた。そこここから歓声が上がる。続いて、2発、3発と立て続けに大輪の花が夜空に咲くと、カメラのフラッシュを焚いたように、辺りは一瞬だけ明るくなる。河原から一段上がった堤防道路は歩行者天国となっており、数々の露天から焼けたソースの臭いや、揚げた油の臭いや、飴を融かす甘い匂いを周辺に漂わせていた。
若い女性がレジャーシートに寝転びながら、河原で花火を眺めていた。隣で同じように寝転んでいる恋人の生温い息が、首筋に纏わりつく。きっと、彼は花火なんかちっとも観てなんかいないわ、と。それでもね、けれどもね、そう思って彼女は彼の想いに気が付かない振りをして、空を見続けていた。