明らかにサイズの合っていないコートを身にまとい、岡本は今日も滑り台に横たわっていた。カメラを握る手は真っ赤に紅潮しており、震える腕を抑えながらファインダーを覗く姿はもはや痛々しくもある。
「流石に冬場はやめたら? いつか死ぬよ、あんた」
「……冬の方が空気が澄んでるから、綺麗に撮れる気がするんだよ」
「気がするって……。せめて確証持ってやりなさいよ」
「あー、さぶっ。ダメだ、限界」そう言うと岡本はカメラを離し、ポケットから取り出した手袋をはめた。
「ほら、さっき買ったやつ。口つけてないからあげる」わたしは自販機で買った暖かいミルクティーを差し出す。岡本は困っているとも驚いているともとれる表情でそれを受け取り、ボトルを頬に押し当てた。
「そろそろ試験だろ。こんなところで油売ってていいのかね」
「明日よ。あとは万全を期すだけ」
「明日で人生決まっちゃうなんて可哀想な奴だな」
「お気楽な誰かさんとは違うのよ」
「まぁせいぜい頑張れ」
「あんたもちょっとは真面目に考えた方がいいよ。写真で食べていける人なんて現実には本当に一握りなんだから」
いつも皮肉と冗談を纏っている岡本の表情が、一瞬哀しげに曇ったような気がした。彼がそんな顔を見せたのは初めてでハッとしたが、話し出した時にはまたいつもの表情に戻っていた。
「どうでもいいよ。将来とか、仕事とか、お金とか」
「ほんと馬鹿」
「お前だってやりたいことくらいあるだろ」
「わたしは別に……」
喉の隙間から出たか細い声は風の鳴る音にかき消されて、さっきより寒さが身体に染み込んだ。いつの間にかベンチで本を読める季節ではなくなっていた。
「寒いし、そろそろ帰ろうかな。あんたも早く帰った方がいいよ」
「おう……あ、そうだ。ちょっと待って」そう言うと岡本は何かを取り出すべく、ポーチの中を探る。
「あった、あった。ほら」岡本が一枚の写真をわたしに差し出す。受け取って見ると、そこには相変わらず夜空に浮かぶ月が写っていた。
「先週撮ったやつなんだけど、雲の感じとか光の滲み方とか結構理想に近いやつが撮れたんだ。こう手前にフレアが薄く走って、いい感じだろ」
もう一度見直すが、依然として写真にはぼやけたオレンジの点があるのみだった。でもきっと、ここにはわたしに見えていない美しさがあるのだろうと思う。
「確かに綺麗かも」そう言って写真を岡本に返す。
「それ、お前にやるよ。紅茶のお礼」
「えー。なんか、怨念とか込もってて呪われそう」
「失敬なやつだな。一年がかりで撮った貴重な一枚だぞ」
「……じゃあ、ありがたくもらっておく」そう言ってわたしは貰った写真をカバンのポケットに仕舞った。
合格発表の帰り道。わたしには街が色を変えたように華やいで見えた。もう何かに追われる日々は過ぎたのだ。そう思うと心は浮き立ち、すれ違う全ての人に感謝したいとさえ思えた。
電車に乗ると昼時の車内はがらんとしている。こんな時、少し前だったら選択の余地なく単語帳を開いていたのだが、今は後ろめたさに晒されることなく好きな音楽を聴き、好きな本を読むことも出来る。