しかし去年、母から認知症だと告げられたのを機に、また頻繁に母の元を訪れるようになった。今は、あれほど明確に私の将来を照らしてくれた母の目から光がなくなっていく過程をそばで見守っている。
最近は夫婦での会話も親の老後や介護の話題が多くなり、その度に私たちは傷つけ合い疲れきってしまうのだ。カーナビに沿って運転する夫の横顔は朗らかなものだったが、その奥に無慈悲な冷酷さが潜んでいることにも私はとっくに気づいていた。
予備校の教室はからっぽだ。白い壁紙に白い机。真っ白なホワイトボードが文字や記号で埋められていく。からっぽは居心地がいい。学校みたいに人や物で溢れた空間は余計に孤独を募らせる。だったら初めからなにもない方がいい。
ペンを走らせる音をかき消すようにチャイムが鳴って、授業の終わりを知らせた。ほとんどの生徒は筆記具とテキストをカバンに仕舞い、帰宅の準備をする。
教室を出ると廊下の後ろから「志保!」と声をかけられる。振り向くと短髪で体格の良い青年が立っていた。
青山翔太。わたしたちはもうすぐ付き合って一年になる。
「もう帰る? 俺もう一コマあるんだけど、残るなら一緒に帰ろうよ」
「あー。わたし、今日はもう帰ろうかなって」
「オッケー。もう外は暗いから、帰り気をつけてな」
ロビーに座っていた二人の女子中学生が、通り過ぎるわたしに羨望と嫉妬の混じった目を向ける。甲子園にも出場した逞しい身体と整った顔だち。そのうえ予備校でもトップの聡明さを持ち合わせていたら周囲が色めくのにも納得できた。
翔太がわたしを好いているという事実が、自然と歩幅を大きくさせる。穏やかなエゴで満たされた自意識を抱えて、わたしは予備校を後にした。
あれから、帰り道は必ず高台公園に寄り道をしている。家で母と過ごす時間を少しでも短くするためだったが、不思議とこの遠回りは生活に張り合いをもたらした。勉強に埋め尽くされる毎日の中、たった15分を無駄に費やすことが母に対する細やかな反抗だったのだ。
すっかり葉の落ちた木々の間をすり抜け、野球場の横を素通りし、長い階段を必死に登る。すると、小さな広場がわたしを待ち受けていたかのように歓迎してくれた。大抵の日は岡本と挨拶程度の会話を交わし、あとはベンチに座って本を読む。秋風が少し体を冷やしたが、街の灯りと静寂しかない広場で文字を眺めるのは心が休まった。
「よっ」自転車を止めて、滑り台に横たわる岡本に声をかける。
「おう」
「今日はいい感じに撮れた?」
「…………」
岡本はシャッターを切ることもなく、ただカメラを空に構えファインダーを覗き込んでいる。
「何待ってるの? もっとバシャバシャ撮ればいいのに」
「…………」