「だいたい月が綺麗に撮れたからってなんか良いことあるわけ?」
「別にないけど……」
「やっぱ馬鹿じゃん」
「でも理想の一枚が撮れる頃には、きっと僕の腕はプロ並みだぜ」
「その前にここで野垂れ死ななきゃいいけど。じゃあ、わたし忙しいから帰るね。あんたはせいぜいここでカメラと遊んでなさい」
公園を出ると、家までは緩い下り坂の一本道。冷たい空気に手が悴んだが、ブレーキをかけることなく一気に駆け下りた。
「ただいま」玄関に入り、脱いだ靴を丁寧に整えていると甘辛い匂いが漂ってきて鼻腔と食欲を同時に刺激する。
「おかえり。遅かったわね」
「うん。残って自習してた」
「夏期講習も終わったし、そろそろ本腰入れないとね」母は曖昧な期待と厳格な規律の入り混じった声で話す。わたしは昔から母の話し方が苦手だった。
「お腹空いたでしょ。今日は酢豚だからね」
母はわたしが幼い頃に離婚して以来、一人で生活を成り立たせている。
若い頃に勉強し大学を出ていたおかげで、一度リタイアした後も母は社会から必要とされた。一流企業で働きながら親としても何一つ損なうことのないその姿を見ると、わたしも母のように強く生きねばと思うのだ。
酢豚が食卓に並び、二人向かい合わせで食べる。母の目線に晒されながら摂る食事は窮屈だ。箸の持ち方、おかずを食べる順番、咀嚼の仕方まで全てを母に教示されている気分になる。
「効率よく勉強するのが大事よ。無駄は省かないと」
「大丈夫。自習の時間だって予備校のタイムシートに沿ってやってるから」
「そう。なら良かった」
自我が強い割に臆病なわたしは、結局いつも母の鋭くて明快な正しさに負けてしまう。
ふと、わたしの人生は遊園地のローラーコースターみたいに決まった導線を滑っていくだけなんじゃないかと不安になる。上ったり下ったりはするけど、レールは一本だけ。そして、気づいた時には全てが過ぎ去っている。
「お母さんの具合どうだった?」
「相変わらずよ。私の名前すら覚えてないと思ったら、次の瞬間には仕事の心配しだしたりして、どんどん自分がなくなっていくみたい」
「ネット見たら親しい人と話したりするのが一番良い治療みたいよ。思い出とかたくさん話してあげたらいいんじゃないかな」
「そんなのずっとやってるわ。何も覚えていない人に思い出話をしている気持ち、あなたにはわからないでしょう」
母とまともに会話した記憶は大学生の頃で途切れている。社会人になってしばらくすると、わたしは夫と一緒に暮らし始め、母とはお盆と正月にだけ会う疎遠な関係になった。