あの当時、喪失感しかなかったが、その意味が、マラソンを失うかもしれないこの時に、なぜだか自分の中で像を結び始めていた。
「やっぱり、蒼太か」
ココロが楽しげに吠えているのを聞いて、マサ兄が玄関から顔を出した。
「あれっ、マサ兄いたの?」
仕事だと思っていたマサ兄が家にいたので、蒼太は思わず聞いた。
「時間の感覚、狂ってんな。今日は日曜日だ」
呆れ顔のマサ兄に、「なるほど。丁度良い。じゃあ、一緒にココロの散歩に行こうよ」と、蒼太が誘った。
「いいね。ちょっと待ってて」と、マサ兄は家に一旦戻ると、数分後、着替えをして出てきた。
「母さん、心配してるかな?」
蒼太は島に戻って以来一番気になっていることを訊いた。島に帰ってきてから、蒼太の行動に対して母が何か言ったわけではない。逆にマラソンのことも含めて何も言わない。それが逆に蒼太にとっては心配だった。
「ああっ、みんな心配してるさ。伯母さんだけじゃなく、俺も母さんもな」
マサ兄の直球の返答に蒼太は返す言葉がなかった。
申し訳なさそうな蒼太にマサ兄は微笑んだ。
「でも、誰も蒼太を責めてはいない。誰だって、悩むことはあるさ」
握った手綱の先のココロを蒼太は見つめた。ココロは、青空の下の爽やかな空気を満喫し、リズミカルに、この上なく楽しそうに歩いている。
「ココロは悩みがなくていいね」
ポツリと言った。
「いや、ココロは悩みだらけだよ」
想定外の言葉に、「えっ、どんな悩み?」と、蒼太はマサ兄に顔を向けた。
マサ兄は、そうだなーと、青空を一旦仰ぎ、「ご飯の量がちょっと少ない悩み」と、ニタッと笑った。
「ココロ、食べ過ぎだから、ご飯、減らしてるんだ」
「……」
言葉を失くす蒼太に、ハハハッとマサ兄が笑った。冗談好きのマサ兄らしいが、「まじめに悩んでるのに、まったく……」と、蒼太はマサ兄を軽く睨んだ。
「おおっ、こわ!」と一旦戯けると、悪い悪いと、マサ兄はスッと真面目な顔になり、ココロの悩みをもう一つ言った。
「まぁ、仕方ないことだけど、久しぶりに会えた蒼太の笑顔が少ない悩みかな……」
そう言われると、そんな気がした。島を出る前には、いつも笑っていた気がする。今は、自分では笑っているつもりでも、ふと悩んでいることも多い気がした。
「無責任な話かもしれないけど、笑ってりゃ、何とかなる」