「ありがとうございます。」
そんな会話をしながら、今日のシェフのオススメは何だろうと楽しみになってきた。
お店までの慣れた道を一人歩きながら、ふと昔の自分を思い出す。数年前までの私は、明らかに忙しすぎる生活を送っていた。北関東の小さな町を飛び出してやってきた東京で、負けてなるものかとがむしゃらだったあの頃。会社のために自分を犠牲にし続けた日々は、やりがいがなかったと言ったら嘘になるが、その代償も大きかった。結局ここに初めて旅行に来た翌年、私は大きな決断をすることになる。
フリーランスへ転向したのだ。それまで培った知識を活かしながら、自分のペースにあった働き方をしてみようと、勇気を出して1人会社を飛び出したのだ。最初は慣れないことも多かったが、徐々にスケジュールうまく組めるようになってきた。収入面ではまだまだがんばらなくてはいけないところもあるが、出版に関する仕事を続けながらも、自分で自分をコントロールできている感覚には感動すら覚える。
「ああ、さっちゃん!いらっしゃい。」
「こんばんは。今日もカウンター、いいですか?」
お店に着いて、カウンターの一番端っこに座った。3度目以降、この席に座ることにしている。厨房にも近く、サービスの合間にオーナーや奥さんと会話もできる席だ。
「さっちゃん、今年の新酒入ってきたよ。」
なみなみと注がれたワイングラスを出しながら、オーナーが言った。
「あ、そうなんですね。初めて仕入れるワイナリーですか?」
「いや、前から仕入れてたところの新しいブランド。」
「へえー、楽しみ。」
「うちの店の名前、つけてくれたんだよ。エチケットのデザインもおもしろいし。」
そう言ってオーナーはワインボトルを差し出す。
丸々としたカラフルな鳥のイラストの横には、大きなプレゼントの箱が置かれている。その箱は開いていて、中にぎっしり詰まっているのは…。自分の目が大きく開いていくのがわかる。だれも知らないと思っていた私と鳥の儀式。
「何だかおもしろいでしょ。ヘアピンとか、あとはなんだろ。」
マスターのいたずらっぽい目が、ね?と微笑んでいる。
喉を通っていくワインは、瑞々しくて誠実な味がする。
「マスター、これどなたが作ったんですか?」
「結構歴史の古いワイナリーなんだけど、四、五年前にそこで働き始めた、ちひろさんって人が初めて自分で作ったワインだよ。今季の見学、まだ行けるんじゃないかな?レンタカーならすぐ行ける距離だし。」
ホテルに帰ったら宿泊の延長、榎木さんに聞かなきゃ。ああ、レンタカーの手配も。赤く透き通るグラスをランプの光に透かしながら、胸の高鳴りを感じる。ちひろさんに会えたら、まず何から話そう。またこの町を訪れる理由が、一つ増える予感がした。「Le Lien」と呟いてみる。