メールをチェックした時にテーブルに置き忘れてきたようだった。
爽やかな笑顔が印象的で、私は礼を言い彼の胸元のネームプレートを見て、青年の名前が木村であることを知った。以来、彼とは他のホテルスタッフとは少し異なる挨拶していた。と言っても、視線を交わす程度で、挨拶以外で言葉を交わしたのは、その時だけだった。
ソファーに座り、背もたれに身体を預けた。ノートパソコンを膝の上に置き起動させた。
周りに居る人々は年齢層もまちまちで、誰かと待ち合わせているようだった。待ち時間で読書をする人、既に待ち人と落ち合い話し込んでいる人。多くの人が携帯電話やタブレットを操作していた。
ディスプレイに、途中で投げ出した虫食い状態の報告書が現れ最初から見直した。変換ミスが目立った。一つのパラグラフを埋めては顔を上げ、人の流れに目を移す。
私がパソコンを広げてから、ロビーのソファーに座る人たちは次々に待ち人と出会い、隣のロビーラウンジや上層階、或いは別の場所へと消えて行った。
一時間程で報告書の第一案を書き上げた。先ずは詳細な報告書を練り、それが完成したら多忙な上層部が目を通してくれるように簡潔な要点を冒頭に添えておくのが部署の報告書のスタイルだった。続いて推敲を始める。
ホテルのスタッフに遅い昼食か休憩の時間が訪れ、何人かが入れ替わった。しばらく姿が見えなかった木村君が現れた。
胸ポケットから携帯を出してメールをチェックする。急いで対応するような案件は何も無かった。ざわつきを感じ視線を上げた。中国からだろうか、五十人ほどの集団が到着し大声で会話が交わされていた。ロビーはどこか別の国にいるような空気に満たされた。
パソコンのディスプレイに目を戻し報告書の仕上げに集中した。しばらくして、異国の言葉は消え、ロビーはいつもの人の流れを取り戻していた。
推敲を繰り返し、ディスプレイから顔を上げては人の流れを眺めていた。迫力のあるバリトンの声、しわがれた声、甲高い笑い声も交って聞こえる。パソコンのキーを叩きながら心地よくそれらの音を聴いていた。
何回かディスプレイから顔を上げる動作を繰り返した時、何か違和感を覚えた。気のせいかと思ったが、誰かの視線を感じる。視線を辿った先は木村君だった。エントランス脇に立ちしばしば目を凝らしてこちらを見る。客人を案内しながらも時々その動作を繰り返していた。
顔は私のほうに向いているが、彼の注意を引く影は私の周りにあるようだった。仕事の手を止め木村君の視線の先を探ると、姿勢を正して座る女性がいた。私から二人おいた席だった。確かその席が埋まったのは、私が座ってしばらくしてからだったような気がする。とするとかれこれ一時間半ほどになるだろうか。ノートパソコンのキーを叩きディスプレイを見て時々ロビーを窺うようにして女性を観察した。
年齢は七十歳位、襟足を刈り上げたショートボブで髪は白髪で銀色に光っていた。白いシャツにミントグリーンのカーディガンを羽織っていた。膝の上に置いた雑誌をめくり、時々エントランスそしてロビーを見渡す。その表情が少し不安そうだった。きちんと伸びた背筋が遠くからも目立つのだろう。
私は仕事モードに戻り、報告書の詳細な部分を仕上げた。ロビーラウンジに移動しコーヒーを飲みながら要約部分を書きあげれば完成だ。しかし私はそこに留まり、締切には十分余裕のある企画書の構成を練ることにした。私も女性のことが気になり始めたからだ。
女性は雑誌から目を離し、エントランスとロビーを見渡す。その動作を時々繰り返していた。再び携帯電話を取り出し、社内メールを確認する。