三ツ矢さんは笑みを浮かべながら僕の正面にどっかりと座った。おそらく歳は80代のはずだ、それなのに工場同様、目の前の大男は10年前と何も変わってはいなかった。唯一違うのは胸に付けられたネームプレートが工場長ではなくMasterと記されていることくらいだ。
「トラジャ」と三ツ矢さんはゆっくり呟いた。「キリマンジャロにトラジャだけだ」
トラジャはインドネシアのまろやかでコクの秀でたコーヒー豆だ。
「たったそれだけですか?」
「あぁ、それだけだ。配合は教えんがな」
僕はコーヒーを凝視した。例え僕が同じ配合で作ってもこの味が出せる自信はなかった。
「美味いだろう?」
「完璧です」と、言いながら僕は芳醇な香りを嗅いだ。
「偉そうだな」
「すいません、つい……」
「元気か?」と三ツ矢さん。
「なんとかやってます、三ツ矢さんもお元気そうで」と僕は答えた。
「どうだ、此処からだとアメフラシがよく見えるだろう」
「工場、何も変わってないですね」
「あぁ、時が止まったまんまだ。工場もこの町も、まるで此処は日本の象徴みたいな場所だ」
「まさか三ツ矢さんがこのホテルにいたなんて」
「アメフラシが一番よく見える場所って言ったらこのホテルの最上階だからな。カフェで床掃除のアルバイトでもしようと潜り込んだら、いつのまにかこんな爺さんがマスターになっちまってな。自分の才能がつくづく怖くなったよ」
「このブレンドコーヒー、ネットでも評判なんですよ」
「俺にとってコーヒー作るのもメーター作るのも一緒さ、どっちも精密で繊細で頑固だから、こちらも頑固な人間が作らないといい物は出来ないのさ」
「三ツ矢さんが債権者に向かってコーヒー吹きかけて大暴れした事、今でも鮮明に記憶してますよ」
「そんな事あったっけな?」と三ツ矢さんはおどけてみせた。
「忘れたんですか?」
「忘れちまったな、そんな古い話は」
その時、テーブルにもう一杯のコーヒーが置かれた。
「私のおごりです」と三ツ矢さんに向かって女性が微笑んだ。「朝の混雑も終わった事ですし、あとは私に任せて久しぶりの師弟関係を楽しんで下さい、工場長」
「どいつもこいつも生意気だな」と言う三ツ矢さんの顔は皺だらけに歪んだ。
濡れたホテルの窓の遥か先には工場が見える。
ずんぐりむっくり煙突2本。
人々はアメフラシの工場と呼んで親しんでいた。