だから、コーヒー好きの僕としては是が非でも宿泊してみたかったホテルで、やっと今の仕事がひと段落ついて新幹線でこの町に戻ってきた訳だ。
偶然にも元職場と同じ町にあるなんて、不思議な縁を感じていた。そんな想いも重なってか、コーヒーの酸味が記憶を呼び覚ますように舌全体に染み渡った。
「何も変わっていないでしょう?」と女性。
「予想以上に」と僕は答えた。「何ひとつ変わっていない」
変わったといえばこのホテルのコーヒーが話題になっているというくらいだった。
「工場も何度か解体の話は出たみたいなんです。公園にした方がいいんじゃないかって。でもあの不思議な形でしょう、保存を望む声も多くて……最終的には残す方向で今では補強作業に入ってますよ」
「補強作業?」
「古い建物ですからね。お金が尽きて閉鎖した工場なのに、お金をかけて維持するっていうのもおかしな話ですけどね」
「じゃあこれからも残るんだアメフラシは」
「歴史的価値もありますしね」
そう言うと彼女は他の宿泊客の注文を取りに行った。
僕は白いカップの中で渦巻くコーヒーを見つめながら思った。
-このコーヒーの色、工場の屋根の色にそっくりだな-
・
工場長は三ツ矢さんという年寄りだった。僕は昼休憩のブザーが鳴ると、決まって三ツ矢さんの隣で昼食をとった。身体は僕より大きく、まるで熊のように毛深く獣の臭いがした。
そんな大柄な三ツ矢さんが精密機器の製造指導をする姿はどこか滑稽でアンバランスに見えたが、僕はそんな三ツ矢さんがなぜか好きだった。
人生で叱ってくれる存在に初めて出会えたからかもしれない。額を刻む深いしわがまるで谷間のように見えたからかもしれない。理由は判らないが、とにかく僕は三ツ矢さんが好きだった。
工場が出来た年に入ってから閉鎖するまでの67年間を勤め上げた三ツ矢さんは、2代目の社長よりも工場の歴史を知り尽くしていた。トイレのモップの繊維の数からボール盤のドリルの溝に溜まった鉄くずの重さまで把握していると言われるほどの生き字引だった。
「この工場は私の人生だ」三ツ矢さんの口癖だった。「出来ることなら死ぬまで此処にいたい」
その日は朝から雨だった。
吹き抜けドーム状の天井に打ち付ける雨はまるで小石が当たっているかのようだ。
「これ雨じゃなくて雹ですかね?」と僕は三ツ矢さんに訊いた。僕らの作業場には窓がない。だから屋根の音のみで推測するしかなかった。
「いや、雨だ」と冷静に三ツ矢さんは答えた。
「どうして判るんですか?」
「雹だと屋根に残るんだ、それがやがてドームの端から徐々に滑り落ちるからザザッという音がする。今日はその音がない」