視線を箱の中へ戻すと、子猫がきょとんとした表情をしている。片手で持ち上げられそうな小さな体だが、全体にふっくらしている。目が大きくてまん丸で、手足が短くて尻尾も短い。
まだ生後、それほどたってないだろう。もともと隆は猫好きであり、愛着を感じてしまう。子猫は少しひるみ、後ろへ下がった。隆はそこへしゃがんだ。近い高さにいると猫は警戒を解くと聞いたことがある。少年時代に飼った猫も実際にそうだった。ただ野良猫の場合は別で、問答無用で逃げられるといわれる。あくまでも飼い猫の場合である。
隆が手を出すと、ゆっくりと近寄って来た。少し前まで人間に飼われていた可能性が高い。それも虐待されたりした気配はない。なんで飼い主が捨てたのだろうと隆は不思議になった。
頭をなでると目を細くして気持ち良さそうにする。抱き上げても大人しくしている。体内に筋肉や骨があるのを感じるものの、それを覆う肉と毛の柔らかさが手に心地よい。
果たしてどうしようか。無理して一軒家を購入したのでペットを飼えないわけではない。しかし秋恵がどう言うだろうか。だいたい今の状態で夫婦生活が続くのか、それもわからなかった。
考えた末、隆は猫を抱えたまま、玄関を開いた。なんと秋恵がいて目が合った。トイレに起きてきたようだ。
万事休す。隠れて猫を飼うとかいったん家へ入れて考えるとか、そういう選択肢は失われた。秋恵がペット嫌いなら対立してしまう。
「そこにいて、まつわりついてきたんだよ」
隆が言うと、秋恵の反応は意外だった。
「可愛い。私、猫好きなの」
秋恵が早足で近寄ってきた。なんとなく隆は猫を秋恵に渡した。彼女がほおずりすると、子猫はゴロゴロと、それまで聞いたことのない声を喉から出した。
隆は秋恵と趣味の話などいろいろとしていたはずだ。音楽は隆がジャズで秋恵がポップス。隆の好きなアルコールは日本酒で秋恵はワイン。コーヒーと寿司が好きという点は共通した。しかし動物が好きか嫌いかということは話題にしていなかった。
秋恵と子猫とが同時に隆の視界に入る状態が続いている。ふとふたつの顔が似ているような気がした。
「そこに捨てられていたんだよ。飼うかい」
「ええっ、捨て猫なんて可哀想。可愛がってあげましょう」
隆は子猫ではなく秋恵の顔を凝視した。彼女の優しい側面に触れて、なんとなくその顔にも可愛げを感じた。そう、もともとは愛情を持った娘だったかもしれない。
猫はマリと名付けられた。秋恵の命名である。聞くところによると、幼くして亡くなった妹の名前だという。ふたりと一匹の生活が始まった。
まずは柔らかいペットフードを買い込んだ。つぎに秋恵の案で、2日に1度ほど、猫用の食事を作るとのことだ。