「妻が買ってきてくれたんです」
「あ、奥さんがああいう感じのデザイン好きなんですか?」
「いや、妻はおとなしい感じの格好をするんですけど、『これバイトに行く時に使いなよ』って、買ってきたんです」
訳がわからなかった。すると伊藤さんは下を向きながらゆっくりと話始めた。
「なんだか恥ずかしいんですけど、妻は私のことをずっと心配していてくれて、バイト先でちゃんと出来ているかいつも聞いてくるんです。大丈夫だって返事はしていたんですけど、妻には全部わかっていたみたいで、バイト仲間がどんな人かしつこく聞いてきたんです。それにも適当に答えんていたんですけど、ついに妻は、若者が多いってことを突き止めたんですね。心配をかけたくなかったから、同世代の男性スタッフもいるよとは言ってたんですけど、バレちゃいまして。それから数日が経って、昨日、妻がこのリュックを買ってきたんです」
「え?なんで?」
「若い子が多いなら、話のタネが必要だって。リュックが話のタネになるからって。私は嫌だったんですけど、妻が本気で怒るので、仕方なくこのリュックで来てみたんです」
僕はもうなんだか嬉しくて仕方なかった。早く田中と飯塚に伝えたかった。今日二人が出勤じゃないのがもどかしかった。僕はまんまと奥さんの計画に乗ってしまったわけだ。なんて単純なんだ。あのタイミングでストレッチをして良かった。勇気を出して話してみて良かっ
た。
田中は、伊藤さんのリュックを見て、嬉しくて仕方なくなるだろう。自分と同じ趣味のものを誰かが持っていたら、いつだって喜ぶのが田中だ。いや、それが伊藤さんだったらなおさら喜ぶはずだ。奥さんの話をしたら、本当に泣いて喜ぶんじゃないかと思う。もしかしたら、お気に入りのポーチか何かを奥さんにプレゼントするかも知れない。田中ならやりかねない。とにかく、嬉しくて仕方ないんだ。
飯塚はきっと、そのリュクが防水かどうか伊藤さんに聞くだろう。あいつは腕時計でも靴でもなんでも、なぜか防水であることを重要視する。そこを追求する飯塚にいつもの優しさや遠慮はない。僕が思うに、あれはきっと防水のリュックじゃない。飯塚は失望するだろう。でも、それでいい。雨が中まで染み込んでしまう素材であって欲しいなと、なぜか思う。
斎藤さんは、いい年のおじさんが若者みたいなリュックを使っていることを非難するだろう。それでいい。迷惑を掛けたわけじゃないから、伊藤さんだって笑って聞き流せるはずだ。
話終えた伊藤さんは、「ジュース買ってきます」と言って立ち上がった。
「雨降ってますよ?」
「自動販売機までなんで、大丈夫です」フードを被った伊藤さんは下を向いて、でも笑っていた。
伊藤さんがドアを開けると、外の湿った冷たい空気が入ってきた。伊藤さんが外に出て、ドアが閉まっても、休憩室には似合わない外の空気が、部屋の中を回っている。伊藤さんが慎重に階段を下りる音が聞こえてきた。慎重にゆっくりと、控えめな足音が鳴っている。半分くらい下りたところで、その音が少しリズミカルになった、気がした。
休憩室の中の空気と、外から来た空気が混ざり始めた。
全部、奥さんの思い通りだ。