田中は、「弁護士だったかな、会計士だったかな、忘れちゃったけど、とりあえずなんとか士の仕事やってたんだけど、なんか事情があってここでバイトしなくちゃいけなくなったらしいよ。あ、建築士だったかもしれない。」と言っていた。
確かに、短い髪の毛と長い顔、ちょっと青いけど毎朝ちゃんと剃っていると思われる髭は真面目な印象で、「なんとか士」って感じがした。年下の僕たちに対しても丁寧な口調で話して、店長みたいな威圧感もなければ、斎藤さんみたいな煩わしさも無かった。
周りのバイト仲間もそう感じているようだった。田中は「伊藤さんってなんかダンディーだよね!かっこいい!」と言っていたし、飯塚も「変にベタベタしてこなくて、いい。」と言っていた。他のみんなも同意見だった。
いつ頃だっただろうか、それが変わってしまったのは。伊藤さんが変わったのではない。むしろ伊藤さんは変わらな過ぎたのだ。最初に伊藤さんに対してマイナスなことを言ったのは、たぶん田中だった。バイト終わりの休憩室でだった。
「今日さ、私遅刻しちゃったじゃん。で、伊藤さんまだ仕事遅いじゃん、だから私が着いた時には洗い場もう大変なことになってて、もう本当に申し訳なくて、めっちゃ謝ったの。そしたら、『ああ大丈夫です』って。それだけ。えーー、めっちゃ怒ってると思って、もう一回ちゃんと謝ったの。そしたら、また『ああ大丈夫です』って。えーー、リピートしたーー!もう絶対怒ってるよね。そうじゃなかったらもうロボットだよ。リピートしてんだもん」といつも通りの笑顔で話した。
田中はいつも店長や斎藤さんの悪口を楽しそうに話す。彼女の話の中では、店長は変態村という村の村長だったし、斎藤さんは店長の継母だった。もう訳が分からない悪口に、僕らは突っ込みをいれたり、賛同したりしながら楽しく聞いていた。だから、伊藤さんに対する悪口も、いつも通りの楽しい戯言のはずだった。でも違った。
伊藤さんの悪口に対して突っ込みを入れる人も、賛同する人もいなかった。
一瞬の間があった後、飯塚が制服をたたみながら「怒ってるわけではないと思うよ。伊藤さんは丁寧な人だから、ちょっと冷たい感じになっちゃったんじゃない?」と言った。
「なるほどねー、丁寧な人かー。私も丁寧な人目指さないとねー」と冗談を言うと、やっと僕も「それは無理だね」と口を開くことができた。
だぶん、このころからだ、みんなが伊藤さんに対して、何かを感じ始めたのは。
伊藤さんは仕事の覚えが悪かった。しっかりとメモは取っていたから、一度教わったことを何度も聞き返すというようなことはなかったけど、慌ただしい飲食店で次から次に発生する「やるべきこと」をテキパキと処理することが出来なかった。
今すぐ皿を洗わないと使える皿がもう無いのに、箸を洗っていたり、つぶ貝を入れるべき容器にホタテが入っていたりというミスが多くあった。いや、毎日、何回もあった。
斎藤さんはそういったミスにすごく厳しい。どうやったらあんなに偉くなれるのか。信じられないほど「自分は全てわかっている。あなたは何もわかっていないし、何も考えていない」という態度を前面に出して注意してくる。伊藤さんは、それに対して本当に申し訳なさそうに謝る。もちろん、僕らだってミスをしたら謝るけど、伊藤さんは謝り過ぎる。斎藤さんの説教の言葉で、聞くべきことなんて四分の一もない。四分の三は自慢と罵りなんだから、あんなに真剣に聞いて、真剣に謝る必要なんてない。