「ばあばは、お花がすきだから。くれよんでいっぱいかくとうれしいんだって」
かれがもっていたものを、今もまだ俺は持っているだろうか。サトルは過去に問う。
「そうかそうか、そんならいっぱい描くんやで」
爺ちゃんは嬉しそうな様子で、クレヨンと紙をかれに渡す。
「オレンジと、きいろとピンク。きれいだよね」
さとるは力いっぱいのタッチで絵を描いていく。
決して上手くないし、幼い子が描いた落書きでしかなかった。それでも傍らの爺ちゃんは上手いなあと、孫を手放しで喜ぶ。
夢や才能、可能性といった類の言葉は大人になるほど使わなくなった。
誰かに喜んでもらう為には、お金をかける事が前提となっていた気がした。
きみはこれからずっと長く歩いていく、それがいつか俺につながる。二十年前の自分を見つめている現在の自分を、二十年後の自分はどう思うだろうか。新しい家族がいるだろうか、月並みでも幸せだろうか。
「あっ」力強く握っていたクレヨンが勢い余ってサトルの足下へ転がる。つい背を屈めて取ろうとした。
さとると目が合った。かれは俺をみると嬉しそうに笑った、気がした。
十分ほどの空間映像を観終わった後チェックアウトまでの時間を、サトルは喫茶スペースで過ごした。まるで上下巻の小説を一気読みした後の読後感に似ていた。
爺ちゃんはばあちゃんに向けてメッセージを残していた。普段言えない感謝の気持ちを、愛の言葉を。口下手でも想いはちゃんと伝わっているよ。ばあちゃんは幸せだったんだな、もちろん今も。サトルは思う。引き出しに眠っているそれは、いつでもきっと取り出せる。
ダブルのエスプレッソに砂糖を二袋入れ、カチャカチャとスプーンで混ぜる。クイっと眠気覚ましのように飲み干すと、ジャケットの内ポケットに入っていたボールペンを取り出す。紙ナプキンを引き寄せると、シュッっと線を描いた。シュッシュッ。手早く線を加える。手の動きにイメージが加速する。ものの五分足らずで即席の絵は完成した。
「アネモネですか。お上手ですね」
振り向くと白石さんだった。彼女はいつも唐突に現れる。
「絵描きさんだったんですか」
「いや、まさか。高校の時美術部だっただけです。それ以来描いてませんよ」
「じゃあ、どうして急に」
白石さんの微笑みはすべて見透かすようだった。サトルは一息ついて答える。
「思い出したんです」そう確かに思い出したのだ。かれに出逢って。
「ばあちゃんにお礼をと思って描いたんですけど。喜んでくれますかね?」
「もちろん。素敵だと思います」
「そう。それならよかった」サトルは立ち上がり受付で待つ節子のもとへと駆けていく。彼の表情はどこか照れくさそうだ。
白石さんは彼の後ろ姿を見届けた後、飲み終わったカップを片付けようとした。
テーブルには、先ほどとは異なる絵が置いてあった。
紙ナプキン上には、ラナンキュラス、バラをメインに、スプレーカーネーションやカスミソウを散りばめ、リボンで纏められた鮮やかなブーケが描かれていた。
『白石さんありがとう。ここでの時間はとても大切なものになりました』
サトルの照れくさそうな顔が蘇る。
保存出来ない、大事な思い出がまた一つ増えていく。
白石さんは想いを強く胸に刻んだ。
忘れてもいい。