あの時は祖母が無事であったことの安心感と、祖母から目を離してしまってから起きた出来事に対する焦燥感で気が動転していた。事情を簡単に説明し、お世話になったお礼を言いたいとずっと思っていた。
次に男性に会えた日は朝から静かな雨が降っていた。傘から時折垂れる雫越しに管理人室に目をやると雨合羽を着た男性が、利用者一人ひとりに声を掛けていた。
「雨で滑らないように気を付けてお帰りくださいね」
私は目の前で繰り広げられている場面を道路の反対側から見つめていた。すると私を認めた男性はいつもの笑顔を見せてくれた。
「お帰りなさい」
いつもなら言葉を返すだけだが、この日は男性に近づくと向かい合う形で彼を見上げた。
「先日は祖母がお世話になりました。最近急に外に出歩くことが多くて」
続く言葉を考えあぐねて俯いてしまった。ただ感謝の気持ちを伝えたいだけなのに、すぐに祖母への不満を口にしてしまいそうだ。目線を足元に落とした私の耳に、何時にも増して温かい彼の声が撫でるように降ってきた。
「どうかお婆さんを大切にしてあげて下さいね。きっとそれが貴方に返ってきます」
私のお袋も認知症だったので放って置けなかったんですよ、とカラっと笑う彼に祖母の顔を重ね、何度も頭を下げた。
認知症を受け入れることは容易ではない。自分の記憶にある本人と目の前にいる本人とのギャップに戸惑い、苛立ち、対峙する自分の態度に嫌気がさした。しかし彼の一言で立ち止まって考える余地を貰ったように思う。理解者は意外な場所にいるものらしい。
男性に助けられた日の夜、祖母は何の前触れもなく私に向かって笑った。
「今日は楽しかったねぇ」
祖母の記憶からはすぐに消えてしまうかもしれない。何が起こっていたのかも分からなかったかもしれない。しかし確実に私の胸に刻まれた。暫くは私だけの物語として閉まって置くことにする。
それは突然だった。ある日駐輪場の前を通りがかると管理人室の前に小さな人だかりが出来ていたので近づいてみると、その輪の真ん中に男性が立っていた。
「寂しいわよ」
「本当にお世話になって」
「そんなこと言わないでくれよ」
皆が花束や菓子箱を男性に差し出している。男性の足元では小さな女の子が彼の手を取り左右に揺らしながら顔を見上げている。
(これは)
心臓を誰かに強く握られる感覚に襲われた。男性に声を掛けてもらうまで道路の反対側から呆然と様子を見つめ、しばらく動けなかった。何時からか、男性とタイミングが合えば何時でも会えると信じて疑わなかったのだ。そう思った時急に背負っていたリュックが重くなった気がした。
「お帰りなさい。お疲れ様」
大きな花束を両手いっぱいに持って私に微笑んでくれた。管理人室の前には組み立て式の長机が置かれ、その上には花束やお菓子、飲み物などが机の上を覆っている。載せきれなかった贈り物は横にある大きな段ボール箱に収められているようであった。
「もしかして」