母はよく祖父の話を聞かせてくれた。
「結婚なんてするもんじゃないと思っていたのよ」
祖母を部屋で寝かしつけてから、母は目の前のコーヒーカップから立ち昇る湯気の行方を追いながら呟く。母が20歳の頃に亡くなった祖父は彼女にとって強烈な「男性像」としてこびりついたようだ。
「毎日怒鳴っていた。準備が遅いだの食事が気に入らないから作り直せだのって。父が長男だったものだから親戚の目も厳しくて。お祖母ちゃんが胃潰瘍になって入院した時に親戚が言っていた言葉が忘れられないの。“何をそんなに胃を痛めることがあるのかしら。仮病かもしれないから診療証明書を見せて欲しい”って」
決まって母は涙ぐんで言う。
「ある時父に作り直しを命じられてお祖母ちゃんが買い物に出かけた時があったんだけれど、日が暮れても帰ってこないのよ。死んじゃったんじゃないか、私たちを捨てたんじゃないかって不安で堪らなかった」
そういう時代だったのねと目元を押さえながら口元を歪める母の顔が瞼に焼き付いて離れない。だからこそ母は祖母の一番の理解者でありたいと願っているに違いない。私はその家族として支えていかなくてはいけないと唇を噛んだ。
(本音は絶対に言えない)
と、私は唾と一緒に飲み込んだ。夜は音を忘れたように静かに更けてゆく。
「ちょっとそこまで言ってくるわね」
ある晴れた休日の午後、祖母がお気に入りのショルダーバッグを抱えて私に向かって言った。右手で家の前の一本道を指している。
「そこってどこ」
私は本に落としていた目線を祖母に向けた。一本道を真っすぐ200メートル行った先のコンビニに行くのだろうと察しは付いたが不安になって聞いた。母は不在だった。私も今から習い事のために外出しなくなくてはならない。
(何かあったら責任が取れない)
という焦りがある。しかし祖母は呑気にあそこよ、あそこと言うばかりで具体的な場所を言わない。要領を得ない会話が10分ほど続いた後に、痺れを切らした私はつい大きく息を吐いた。
「私の習い事が終わるまで待って。一緒に行くから」
大丈夫だって、一人で行けるわよと渋る祖母の声を背中に浴びながら私は黙って靴を履いた。草臥れた靴紐が解けてだらしなく床に寝ている。手荒に蝶々結びを作ると強く引き絞って、勢いよく玄関のドアを閉め駆けだした。50メートルほど駆けた所で立ち止まり息を整える。
(お祖母ちゃんと話していると)
と、奥歯を噛んだ。容赦なく照り付ける太陽から逃げるように、私の身体の真下に影が濃く小さくアスファルトを塗った。どれだけ走っても纏わりついて来る影と同じく、先程の祖母との会話と鈍い頭痛が離れない。
(自分の悪いところが出てきて本当に嫌)
醜くて卑しいものが黒い塊となり自在に形を変えるスライムの如く身体から流れ出ている。目を背けても祖母の顔が浮かび上がり、頭痛が激しくなる一方だ。私は首を強く横に振って重い足を前へ進めた。
帰路について家の前まで辿り着いたとき、異様な雰囲気を感じ取った。まだ日が昇っているのにカーテンが閉められている。祖母の部屋は電気が消されているが僅かに窓が開いている。
(昼寝でもしているのかもしれない)