振り向くとあの男性がこちらに手を振っている。彼の笑顔を見た途端に目の奥がじんわりと熱くなったことに気づいたが堪えようと口元に力を入れた。
「…こんにちは」
微かに自分の声が震えていた。笑顔で返せている自信がなく、すぐに目線を逸らして家に向かう足を速めた。数メートル進んだところで散々打ちのめされた私の背中をそっと支えてくれている感覚を覚え、そっと振り向いた。男性が道路上まで出てこちらを見送っていた。右手を大きく振っている。私はすぐに大きく手を振って答えた。
その約三週間後に小さなIT企業の内定を貰った私は短い「人生の春休み」を過ごしていた。両親は一人娘である私が何とか就職先を見つけたことを喜んでくれた。当の本人である私以上に。
あれからあの男性には会えず仕舞いだった。当然彼のシフトを把握しているわけではない。加えて我慢していた楽しみを今のうちに味わっておきたいと、埋まっていく予定を手帳に書き留めていくことが何より嬉しくて夢中になっていた。
ただ一つ家族全体の悩みの種があった。祖母の認知症だった。七十代半ばを超えてから物忘れや話の筋が通らないことが増え、
(愈々来たか)
と覚悟した。
散歩や庭いじりを日課としていた祖母は、私や母を驚かせるほどの健脚を使って体力が落ちてからもフィットネスや日帰り旅行を楽しんでいた。若い頃は苦労が絶えず入退院を繰り返していたようだが子供が全員独立し、心に余裕が出てきてからは大病ひとつしていないらしい。
「いつもお元気でいいですね。一緒にいるととても楽しいです」
祖母と関わる人が口々に言うセリフである。その天性としか言いようのない愛想のよさと人懐っこさで祖母の周りはいつも賑やかだった。
そんな祖母も八十歳を超え更に体力が衰えると家に籠るようになった。何もしたくない、と言う。家の中は祖母のための貼り紙だらけになり、自分一人では満足に入浴やトイレに行くことが出来なくなった。
「どうしようかなぁ」
母は悩んでいた。私が生まれる前からの趣味であった着付けと茶道を一旦辞めようかと言い出した。父が単身赴任先から帰ってくるのは1カ月に1度ほど。私も次の春から一人暮らしをすることを決めていた。自然に母は祖母に付きっ切りになる。
(どうしてお祖母ちゃんのために辞める必要があるのか)
胸の奥底が鈍く痛んだ。誰にでも起こりうることだと思いなおす自分と、自分は大丈夫だと言い張る祖母の姿を冷めた目で見つめる自分がいる。母の手を借りてゆっくりとトイレから出てくるところに出くわすと堪らない気持ちになる。小さい頃に祖母の家で一緒に餃子作りをしたときの場面が、暗い足元に浮かび上がった。
あの頃は1年の内に1,2回程度会うくらいの間柄で色々な話を聞いたり話したりしてくれる優しい人に過ぎなかった。しかし一人暮らしをしていた高齢の祖母を私たちの家に引き取ってから毎日会う関係に変わった。それはちょうど私が中学校に入学し思春期真っただ中にある時だった。するとその祖母の「人懐っこさ」が私の中にずげずげと入って来る「無神経さ」に、「優しさ」が「余計なお節介」に映ってしまった。
頭では分かっているつもりである。幼少のころは戦災に逢い、女性という理由でやりたい仕事に就くことが出来なかった。両親から紹介された見知らぬ男性と結婚させられ、その男性とその親類たちに振り回され入退院を繰り返した。自殺を考えたことは1度きりではないと言う。その祖母が高齢になった今、大好きな花に囲まれて好きなことを思う存分やって欲しいと思う。たった一人の孫娘である私を大変可愛がってくれたように、私も彼女の望みにできるだけ応えて快適に過ごしてほしいと思う。しかし認知症の症状を目の当たりにすると、急に苛立たしさが頭をもたげてくるのだ。