(人を選んでしまっている)
知人や友人、先生などには挨拶をする時に自分は相手の目を見ているだろうか。顔見知りや普段関わりの薄い人に対してはどうだろう。
通り過ぎた後も彼の挨拶する声が私の耳を追いかけてきた。そっと振り向くと自転車や原付バイクを押して駐輪場へ向かってくる利用客らしい人々に一人ずつ丁寧に声を掛けている。彼と言葉を交わした人は総じて笑顔だった。
自宅の玄関のドアを開け、ただいま、と奥にある台所に向かって声を掛けた。すると間もなくパタパタとスリッパと床が擦れる軽快な音が近づいてきた。
「お帰りなさい」
と開いたドアの陰から母が顔を覗かせた。
「ただいま」
この母の声と顔を見た後、靴を脱ぐために視線を逸らした時、あの男性の雰囲気が思い出された。
特別気にすることもないこのやり取りが、最近は大切にしなくてはならないものに思えてならない。この身体がふわふわと浮き上がっていくような、胸の底がじんわりと熱を帯びるような感覚を覚えておかなくてはならない気がする。その男性の笑顔は雨の日でも風の日でも変わらない。
当番制なのだろう。違う男性が管理人室の前に立つ日がある。ある男性は全く目を合わせてくれなかった。ある男性は目をそらした。ある男性は私の会釈に応じてくれなかった。
(普通はこういうものだ)
妙に感心してしまった。挨拶をしてくれたあの男性はただ愛想のいい人というには箱が狭すぎる。何かしらの考えや想いがあるに違いない。
(あのやり取りがないだけでこんなに違うのか)
通り過ぎた後の静かな駐輪場に耳をそばだてながら灰色の雲が滲む夜空を見上げた。
大学卒業を1年後に控えた私は就職活動に苦戦していた。成績は平凡でサークルには気が向いたときに顔を出す程度。アルバイトや友人との飲み会に明け暮れる生活を送っていた私には企業にアピールするものがない。加えて将来的にやりたいものが見つからなかったおかげで社会人になった自分を思い描くこともできない。説明会に参加してもどこか他人事の様に思って興味が湧かない。
(これじゃ遊びに来ているみたい)
帰りの電車の中で、車窓に薄っすらと反射する自分のスーツ姿を見て思わず苦笑を漏らした。誰かに着させられているかのような無機質の動きにくいジャケット。歩いて数分後には靴擦れを起こすパンプス。ゴミ箱を太らせるだけの大量の企業パンフレットが肩の骨を軋ませる。これでは採用担当者に心の内を見透かされて当然である。
(みんなは)
と友人のSNSを覗くと、内定を貰った清々しい顔で海外旅行を楽しむ写真で埋め尽くされていた。顔を上げると疲れ切った冴えない自分の顔がガラスに浮かび上がっている。天高く降り注ぐ太陽の光が憎らしい。
(次の会社を探そう)
今日の面接室の光景を頭の中で打ち消し就活サイトを開く。
最寄り駅に着いても相変わらず陽の光は突き刺すばかりで、自分の足元に伸びる陰の色が一層濃くなっていた。
駅の階段を降り、あの駐輪場に差し掛かった時だった。
「お帰りなさい。お疲れ様」