「私、○○大で美術の准教授をしております、長野春樹と申します。ええと」
と言い、彼はジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出すと、姿勢を正して両手で私にそれを渡してきた。思わず私も抜いていた気を正し、彼の身体全体を彼の方に向かせる。そうして、美咲はそれを両手で受け取ると、そういえばと思い、何かあったときの為とスマホのケースのポケットに入れていた名刺を一つ彼に渡した。
「大学の先生なんですね」
「ええ、そうなんです。美咲さん、というんですね」
「はい」
なんだか、冴えない、とかパッとしないと思っていたことが、彼女は急に恥ずかしくなってくる。大学の先生に比べたら自分なんてなんの地位もない人間で、人というのはなんて単純な生き物なんだろうと笑いたくなってきた。
「それで、そんな方が私なんかにどうして?」
と、先ほどまでとは違い、どうしてもへりくだって話をしてしまう美咲がいた。准教授と聞いてから、しかも美術の准教授と知ってからは、その着ているジャケットもどこか洗練されたものに見えてきてしまう。こういうのって意外と値が張るんだよね、なんてどうでもいいことさえ考えてしまう。
「実は、今ここに飾る絵を一枚頼まれているんです。それで、ここ数週間ずっと考えているんですけど、どうも思いつかなくて。このホテルって、建ってまだ一年もしないんです。それで、ホテルの方に訪ねたら都会から来る方が多いと聞いて、僕の絵にもその都会的要素を取り入れたいと。だけど、この地域の自然豊かなものも同時に描きたい。そこで考えたのが、都会的な人とこの自然を融合させた絵でした。それで、暇があればこのホテルに来てよさそうな人を探していたんです。そうしたら、今日あなたを見付けました。僕の絵に絶対に合うと思ったんです。あなたの都会的な雰囲気が。それで、一日貴方と過ごしてインスピレーションを受けたいと思いました。先に、この話をしていたらよかったですね」
彼は、目を細めてはははっと笑う。彼女は、その彼の穏やかそうな笑顔に、この人の頼みならと思ってしまう。どこか人懐っこく、だからと言ってぐいぐいと来ることなく、その距離感がなんとも心地よい。
「いいですよ。その代わり、ここの穴場スポット、教えてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろんです。本当にありがとうございます」
「いえいえ」
その後、連絡先を交換して二人は一旦別れた。
「はーっ」
朝起きると、窓から見える風景はいつものあのビル群とは違い、自然の色が目に入ってくる。緑や赤、水色、茶色、それはなんだか懐かしさを覚えさせる色だった。彼女は都会で生まれ、都会で育った。だから、友人の言う故郷が今までピンとこなかった。しかし、この風景を見て、なんとなく『これがそういうことなのか』と思う。窓を開けて、その空気を肺にめいいっぱい入れる。澄んだ空気は、直感で美味しいと感じる。汚れのない空気は、ここまで清々しいものなのかと身体全体で感じた後、いつものように朝のルーティンを始めた。
「さて、朝ご飯でも食べに行こうかな」
時計は朝の八時を指しており、約束の時間は十時だ。まだまだ、時間に余裕はある。朝食のチケットと鍵を忘れないようにチェックをし部屋を出た。
レストランに来ると、すでに人で賑わっていた。ホテルの従業員にチケットを渡すと、窓際の席に案内される。そこからは、ホテルの庭が見えて、その中央には噴水があった。
「よしっ、取りに行くか」
と、私は噴水から目を離し、人ごみの方へと向かう。見ると、様々な種類のオレンジが横一列に、まるで宝石のように並べられてある。ある子どもは、それを一つずつ皿の上に乗せている。ある人は、一種類のオレンジを大量に持っていく。いろいろな人の十人十色な食べ方が見えて、面白い。