カットは始まってから一時間が経過していた。ぼさぼさだった髪も、あごのラインも耳も見えるまで短くなった。髪の重さ自体はたいしたことないのかもしれないが、心なしか長い間自分の中に淀んでいた重いものを切り落とした感じがした。気持ちが少し楽になり、明良は三朗の話をもっと聞いてみたくなり、東京で働いていた時代のことや、この町に戻ってきてからのことを尋ねた。三朗が古びた年代物の大学ノートを明良に差しだしたのは、三年前に父親が亡くなった時のことを聞いたときだった。
「これが親父の遺品の中から見つかりまして」
三朗は店の棚の一つを開けると古びたノートを数冊持ってきた。かなりの年代もので、ノートの表紙は色あせ、中の紙も経年のためか茶色に変色していた。表紙には手書きで「日誌」とだけ書かれ、それぞれに番号が振られていた。
三朗は一冊のノートのページをめくってみせた。右上に平成十八年七月三日とある。今から十年以上も前だ。細かい文字でびっしりかかれたページは、七波床屋に訪れた客の様子が記された記録だった。会話の内容はもちろんのこと、その日の客の体調や、相手の考え、悩みなども書かれていた。客のカットやカラー、パーマの履歴を記録する顧客カルテとは違い、そこには訪れた客の日常が記されていた。そしてそれは、膨大なかつ詳細だった。
「これを毎日、おじさんは書いてたんですか?」
三朗はうなずき、ページをめくった。
「明良さんが最後に来た中学生一年生の夏の記録です」
言われるままに、ページを見た。そこには癖のある角ばった文字で、自分の名前とその日の会話が記されていた。その日、明良が陸上部でのランニングを切り上げて店に来たこと、給食の揚げパンが甘すぎて残してしまったこと、合唱コンクールが迫って毎日昼休みに屋上で男子だけで猛特訓していること、最近読んだ小説のこと。
読んでいると、不思議な気持ちになった。書かれている出来事は、確かに明良に起こったことだが、当時のことはぼんやりと思いだせても、この店に来たことは思いだせなかった。本当にこの店にきてこんな会話をしたのだろうか。そう思いつつ日誌を目で追っていると、ある場所で目が留まった。
明良は、夏休みの自由研究にはじめて小説を書こうと思っているらしい。内容を聞くと、教えてくれなかったが、どうやら冒険小説らしい。完成したら読ませてくれるという。楽しみだ。
ふいに明良の脳裏に蘇ってくる映像があった。それは、夏の夜、デスクランプをつけながら、毎晩机にむかって小説を書いていた十三歳の時の自分だった。結局、あのときは形にならずに、誰にも見せなかった。けれど、あのときのくやしさからもっと本を読んでちゃんと形にできるようになろうと思ったのだった。そして、その小説が読める形になったのは、高校二年生の時だった。それが原案となって十年後、「岬と風と光のワルツ」は完成し、新人賞を受賞し、デビューすることになった。
「そうか、あのときから始まったんだ」
明良はあの当時、小説を書いていることは誰にも言わなかった。親にも友人にも、先生にも誰にも言わなかった。言ったのは、七波床屋の店主の「七波のおじさん」にだけだった。しかし、あのときは完成できなかった。そして見せられないから、この店にも来れなくなった。この日誌にある通り、この店を訪れたのは十三年前のあの日が最後になった。
「おじさんと約束していたこと、今思いだしました」
明良は呆然として言った。けれど、それを果たせなかった。なぜ、今まで忘れていたのだろう。問いかけながら明良はわかっていた。忘れていたのではなく、忘れたかったのだ。約束を果たすだけの力があのときはなかったから。それで、ここにも来られなかった。ふいに脳裏におじさんの顔が浮かんだ。優しくて、いつも怒らず、明良の周囲の人間がよくやるようにからかいもせず、静かに話を聞いてくれた。あの日、たしかにおじさんと約束した。そのことがいま、記憶の底に蘇った。