三朗の言い方があまりに自然だったので、明良はファミレスのメニューを選ぶように「じゃあ、それで」と言った。そして、自分があとでクレームをつけないという保証をするように、
「似あわなかったとしても、髪は伸びるんで」
と言った。三朗は微笑した。
「やっぱりご兄妹ですね」
「え?」
「『髪は伸びるから』っていうフレーズ、萌花ちゃんもよく使います」
明良は顔が赤くなるのを感じた。
カラー剤を塗り、色が浸透する頃には十時半になっていた。時間は問題ないのだろうか。不安そうに時計を見上げたのがわかったらしく、三朗は二時までは大丈夫だと言った。
明良は驚いた。
「そんなにかかるんですか?」
「お昼には終わります。カラーをご希望されるかと思いまして余裕をもたせました」
「予言者ですね」
「おおげさですよ」
三朗は屈託なく笑った。それをきっかけに、明良は三朗に自分の現状をぽつぽつと話しだした。三朗が親しみやすく、丁寧だったせいもある。けれど、一番の理由は、三朗が自分とまったく違う畑の人間であること、自分よりも十歳も年上ということだった。かまえることなく、話をすることができた。
「美容師さんも、スランプってありますか」
明良の問いに三朗は唇の端に笑みを浮かべた。
「ありますあります。ありすぎるぐらいですよ。実は」
「本当ですか」
明良の声は自然大きくなっていた。
三朗はうなずきながらも、明良の髪に指を入れて、カラー剤の浸透具合を確かめた。
「ちょうどいい具合です」
三朗はそういうと、シャンプー台に明良を移動させた。
席が倒れ、顔に覆いがかぶせられると、三朗の両手がカラー剤をもみ込むように明良の頭皮をマッサージしはじめた。お湯の温度が心地よい。眠りに落ちそうになったとき、頭の上から三朗の声が聞こえた。
「美容師のスランプは切れなくなることですね。でもスランプってけっこうあるんですよ。というか、むしろ、頻繁ですよね」
「どんな感じですか」
とたんに眠気が冷めていた。
「物理的には切っているんですけど、切った形に納得できないっていうのかな。思い通りに切れていない感じです。切っても切っても違う感じがつづきます」
同じだ、と明良は思った。切ってもその形に納得できないのと、書いてもあとからいくら推敲しても納得できないのと。
そういうときはどうするのだろう。明良が不安そうにたずねると、三朗は淡々と答えた。
「基本に返ります。切り方のお手本を何度もやるんです。そうしているうちにまた納得していけるというか」
その言葉は思いがけず明良の心にすっと入ってきた。そして心に小さな波紋をつくった。
基本に返る。明良は頭の中で三朗の言葉を反芻した。
明良の知る小説の基本があった。写経だ。写経は、お手本とする作家の文章を書き写すことで、明良がデビュー前からずっと続けていた文章修行の一つだった。