「それで?」
「お店八時までだから、予約するなら今がチャーンス」
萌花は決め台詞のように語尾を強調すると、部屋を出ていった。
いまはそれどころじゃない、と思いつつも明良は名刺を手にとった。たしかに夏以降髪を放置していた。頭に手をやる。ぼさぼさの固い髪の感触、かなり長くなってえりあしは肩についていた。最後に髪を切ったのはいつだろう。夏前だったはずだ。明良は髪をかきあげながら、もう一度名刺を見た。
名刺には、岬と風と光の美容室、セブンウェイブスとある。
岬と風と光。
呼吸が止まった。
そのとき、ふいに部屋のドアがまた開いた。
「言い忘れたけど、七波さんの亡くなったおじさんね、おにいちゃんの大ファンだったんだって」
「らしいな」
「岬と風と光のワルツ」は作家「一瀬あきら」のデビュー作だった。明良はためいきをついた。
萌花がドアの隙間からそれを見透かしたように言った。
「八時まであと十分」
「うるさいよ」
明良の声を遮るようにドアが閉められた。
明良は机に座り直した。手元のミステリー小説をめくってみる。さっぱり頭に入ってこない。わかってる。全部やりつくした。
またしても萌花の声が蘇った。
自分が倒れたときに、一番に俺を見つけて救急車を呼んでくれた妹。毎日、俺が生きてるか確認しにくるあいつ。明良はため息をつき、しぶしぶ名刺の番号を押しはじめた。
4
時間通り午前九時に店を訪れた明良を、三朗は店の入り口を開けて迎え入れた。三朗は白い綿のシャツに黒のスラックス、ゆるくかかった黒髪のパーマはきどらない清潔感があった。明良が妹の紹介だと言うと、三朗は丁寧に頭を下げて来店の謝意を述べた。明良は逆に恐縮した。
明良は店内の正面の鏡の席に案内された。
席に腰を下ろすと鏡の向こう側に真っ青な海が見えた。陽光に照らされた海面がきらきらと光っている。見渡す限りの海だった。明良から吐息が漏れた。
「この席は午前中がいちばんいいですよ」
明良はたしかにそうだと思った。ここ一年はどんな景色を見ても、心が動かされず、文字通りなにを見ても灰色がかって見えたものだ。季節の移り変わりを見る時間的余裕はいくらでもあったが、精神的な余裕が欠けていた。それでもそんなものを吹き飛ばすだけの景観がここにはあった。この見晴らしだけでお金が取れるのではないかと思ったとき、
「今日はどうされますか」
ふいに三朗の声に現実に引き戻された。
「実はなにも考えてないんです。おまかせじゃだめですか」
明良の遠慮がちな問いかけに、三朗は微笑を深くした。
「大丈夫です。では、こうしたいっていうイメージはありますか」
明良はしばらく考えてから言った。
「それが全然。短くしたいっていうだけで、今なにも考えられない状態で」
それは嘘だった。逆に考えすぎて飽和状態だったが、初対面の人間にそれを説明することははばかられた。
三朗はしばらく明良の髪を左右から確認するように眺めてから言った。
「わかりました」
「えっ、今のでわかりました?」
明良は驚いた。三朗は今度も微笑した。
「わかりました。明良さんの気持ちが」
明良は、苦笑した。めんどくさい客なんだろうな、と思った。そしていつもの自己嫌悪になりかけたとき、三朗は髪を染めるのはどうかと聞いてきた。まかせると言うと、三朗はオレンジに近いカラーチャートの中から色を選び、カタログのあるモデルの写真を明良に見せた。萌花ほど奇抜な髪型ではないが、よくわからなかった。
「これ、いいと思います」