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市瀬(いちのせ)明良(あきら)は机の横の窓を閉めると、デスクランプをつけた。外はすでに夕闇の中に沈んでいる。先月なら夕方の七時ぐらいまで陽の光が残っていた。しかし、今は周囲の景色も遠くに見える海も薄闇の中に沈み、昼間の温かさが消えて、涼しさを通り越して肌寒かった。
「十月かあ」
明良は頬杖をついた。
八月に実家に戻ってきてから、すでに二か月半だ。療養のための一時帰省だったが、体調は元に戻っても根本的な解決にはならず、いまだに東京の仕事場に帰るめどはたっていなかった。体調を崩したのは二か月前だが、その原因となったスランプは一年前からだ。
明良は大学時代の二十二歳の時に作家デビューした。それから三年間、専業作家として三冊を出版した。満を持して四冊目は全く別のジャンルに挑戦しようと思ったことが、そもそもの間違いだったのかもしれない、と今となっては思う。四作目は犯罪小説の構想があった。それはデビュー以来現代を舞台にした青春小説から一転、作家として次の段階に進むことを意味していた。構想は順調に終わった。しかし、そのあとがいけなかった。はじめは、今までのジャンルとは違うからだと言い聞かせた。楽器で言えば、クラシックからジャズに転向するようなものだ。リズムもメロディーも、そもそも楽器のならし方さえ違う。問題は違っていることが頭でわかっていても、違う音が出せないことだった。つまり、何度書いても気にいらず、書き直しの繰り返しで、一歩も進むことができなくなっていた。
明良の陥った状況に対し、作家仲間は典型的なスランプだと言い、典型的なアドバイスを山ほど処方した。
書くのをやめて徹底的に遊べばいい。いや、むしろがむしゃらに書きまくれ。インプットが足りないから、読みまくれ。むしろ、旅にでろ。なんなら久しぶりに実家にでも帰れ等々。
すべてこなし、かつ全く意味がなかった。このまま本当に書けなくなるんじゃないか。この問いかけさえ、すでにヘビロテしすぎだった。例のごとく今夜も自己嫌悪と自家中毒かと思いはじめたとき、携帯のライン通知が鳴った。
スズメバチのアイコンが台詞を吐きだした。担当編集者の柴崎からだった。柴崎は明良の十歳上の三十五歳だが、腰が低くいつも丁寧だ。その日もそつのない内容を送信してきた。
「あきら先生、例の締め切りあと四日です。とりあえず千字から気軽にやりましょう」
とりあえず千字。突きつけられた字数に心底ぞっとした。原稿用紙約三枚。毎度十二万字以上の物語を紡いでいたというのに、今じゃたった千字も書けない。
あまりのいらつきに頭を両手でかきまわし、座ったまま床を足で蹴っていたら、部屋のドアが開く音がした。
妹が立っていた。一瞬誰かと思ったが、妹だった。昨日は確かに長い髪をしていたが、今日は猿のように短いザンギリになっている。イメチェンか?
「似あうでしょ」
萌香はにっこりと笑った。
明良が答えに窮していると、萌花はずかずかと部屋に入ってきて、机の上に一枚の紙きれを置いた。みるとそれは名刺だった。
「セブンウェイブス?」
「そ、おにいちゃんとあたしが子供の頃よく行った七波床屋さん」
「え、あの風待(かざま)岬の?」
明良の胸が一瞬、跳ねた。しかしそれがなぜなのかわからなかった。
「あそこのおじさんね、三年前に亡くなったの。おにいちゃん、こっちにいなかったから知らなかっただろうけど。いま息子さんが東京から帰ってきて美容室をやってる」