萌香の言葉に三朗は苦笑した。
「失敗したことないでしょう」
三朗が肩をすくめると、萌香も笑った。
「二ヶ月だっけ」
三朗の問いに萌香が二ヶ月半、と答えた。
その日、店の一番奥にある萌花の席は、「岬」だった。ガラス張りの席のすぐ向こう側は、太平洋に突き出た断崖でその先は海だ。萌花がこの店にくる理由の一つはこの店から眺める絶景だった。
「もうそんなに経つかあ」
三朗が萌香のブロッキングされた髪をほどきながら言った。ハサミを入れる音がして、長い髪が床に落ちた。しかし、萌香は自分の髪のことなど忘れてしまったかのように目を閉じて考えごとをしている。しばらくすると、長い溜息とともに口を開いた。
「時々、やっぱり連れ帰ってこなかったほうがよかったかなって思うよ」
萌花の兄、明良が東京の一人暮らしから実家に「強制送還」されたのは、八月のはじめだ。その一年前から明良は原稿が書けなくなるという職業的スランプに陥っていた。悪化したのは七月の終わりの頃で、その頃から兄と連絡がとれなくなった。萌花が大学の帰り道に自宅を訪れると、明良が倒れていた。医者の診断は自律神経失調症。命に別状はないと言われたが、衰弱は激しく、あと数歩で本格的な鬱に突入するのは目に見えていた。
それから二か月半、季節は夏から秋へと変わり、明良はあいかわらず書けていない。そんな兄が心配で、萌香は毎朝、兄の安否を確認するためドアをノックしている。
「なんかさ、起きてこなかったらどうしようって思っちゃうんだよね」
萌花はつとめて明るい声でいったが、その声には不安がありありとにじんでいる。こうした状況は、本人よりも周囲のほうが我慢を強いられていることが往々にしてある。しかし、三朗はそれを言っても仕方ないだろうと思った。
「でも、スランプってわりと起こることじゃないかな」
ふいに萌香が顔をあげた。
「サブさんも、そういうことあるの?」
「あるある。いっぱいあるよ」
「なんか、意外」
「まあ、いつかは抜けられるはずだけどね」
三朗はそういうと、萌花の顎を少し持ち上げた。鏡の中の自分が一瞬誰だかわからなかったのか、萌花は驚いたように言った。
「うわっ、サブさん、本当に切っちゃったんだ」
「さっきからずっと切ってるでしょう」
三朗のあきれたような声に、萌花は食い入るように鏡の中の自分を見つめた。腰まであった髪がばっさりと切られ、耳が見えるほど髪が短くなっている。
萌香の口元に笑みが広がる。
「軽い」
「かなり切ったからね」
三朗が床に切り落とした長い髪を見て言った。
「サブさん、私いいこと考えちゃった」
「いったいなに?」
三朗はいぶかしげに萌香を見つめた。
萌花はにやりと笑うと三朗のほうに右手を差しだした。
「その前にほしいものがあるんだけど」