そういうと百合子さんはフロアの裏手の水道のところで、ドラセナの葉の裏側にシャワーをかけていた。
「葉水」という作業らしい。
「夏の暑さで葉の裏にハダニがついてしまわないように、葉っぱぜんたいの温度を下げたりする作用があるのよ。ドラセナのクールダウンって感じね」
百合子さんはやさしく葉の裏に水をかける。
「植物は、いちど目をかけたらずっと永遠にその関係性が続くのかもね。最近よくそんなこと思うの」
「そんなふうに植物のことをみたことなくて」
百合子さんの頬にライトの影が差していた。微笑んでいるのに少しだけさびしそうに見えた。
「このホテルを始めた時にね、思ったの。植物をこよなく愛する緑の指を持つ人間としてね。植物って惜しみないでしょ。虫や鳥たちににただ与えるのよ。どこにもあるいてゆくことなく、生まれた場所だけでいきゆくしかない植物は、その成長のゆるやかさにおいて、その偉大さを忘れがちだけれど。ただ命の源を手渡すという行為は、なんとなく大きな掌みたいだなって思ったの。植物はただ植物であって、あの太陽を存分に吸い込む行為も、それはただほかの生き物に手渡すだけで、けっしてじぶんじしんのためではないところがとても、うつくしいじゃない? かっこつけてるんじゃなくて、みんな今は傷ついているひとばかりだから、そういう存在にしたいと思ったのよここを。世の中にそんなホテルが一つぐらいあってもいいじゃないって」
彩夏はなぜかその時、こみあげてくるものがあって涙がでそうになってすんでのところで止めた。
「ここの空間ぜんぶが、百合子さんに育くまれた庭なのかもしれないですね」
百合子さんは作業の手を止めて彩夏をまっすぐみる。
「ま、うれしい言葉。あなた、あのドアを開けて入ってきた時とぜんぜん違う顔してる。緑に癒されたのかな?」
そうかもしれませんって答えたけれど、ここには百合子さんが拵えたもっと大きいなにかに抱かれたせいかもしれないと思う。
「仕事の合間をみてまた来てよ。今日は泊って行く?」
「是非とも」
気が付くとフロアの人達がすこしずつ、上の階へと移動してゆく。眠りにつくために。壁際にはいろいろな観葉植物が並んでいた。
「カラジウム、クロトン、ドラセナ、コンシンナ、モンステラ。おやすみ」
彩夏の背後から声がかかる。木立は並んだ植物達に声を掛けていた。
「おまじないみたいだろ。そいつらの名前。よかったら覚えてやって、いい奴らだから。じゃ、彩夏さんおやすみ」
「おやすみなさい、木立さん」
木立が去って行く背中をみながらふとフロアを見渡す。
車座になって座っていた彼らが、百合子さんのことを楽しそうに話していた表情がふいに浮かんだ。この場所に集っていたのは彼らや彩夏を含めた、きずついた植物だったのかもしれないって思う。すこしずつ傷をいやす場所が彩夏にも見つかったことがうれしかった。
今日起きたことが、どんなにたいへんなことであろうとも<たったそれだけの話>と思える瞬間があれば、いい。
そんなことを思いながらエントランスに視線を注ぐ。
大きなガラス窓のすぐ側に、<ホテル・真夜中の庭>の緑色の文字たちが
月の灯りに照らされて滲んでいた。