この遺書と一緒に届いた大学ノート五冊。
それには「五月二三日、四郎死す。葬儀は自宅から離れた葬儀場で……五月二十七日、紀子が社長就任……翌二十八日に新役員を任命……」と工場の経営の細かな指示が、五年後までびっしりと書かれ。
ノートの大半には「その一、品質数量管理に於いては考量する必要性がある。その二、品質は必ず最終をダイナパック使用の事……その三……」と、製造に関する改善点の項目が百以上も書かれていました。
先生はこれを読んで、この人は本当に死のうとしている人なのか? と衝撃を受け。そしてまた父親が冷静だったのが伝わり、自分の中で気持ちの整理が付いたそうです。
僕はこれを読んで不謹慎だと思いますが“カッコいい”と思った。それと同時に何か煮えきれない感情に似た蠢く物が内心に。
それは恩返しの話と連鎖するのは直感的に感じました。
その後の工場は遺書の通りに先生の母親が社長就任し再出発を。
でもこれも遺書に書かれた懸念通りに数年後には経営が悪化。
累積した負債が膨らみ、今の経営体制ではどうにもならない。現社長を支えてきた役職の人達から声が上がりました。
一新する為に代表の交代。共に現在の負債を個人の借金として社長家族が受け持つという意見。それは先生家族に死ねと通告する様なものでした。
それを強く申し出た方。誰でもない、あの正浩さんだったそうです。
先生は言っていました。余程の苦渋の決断だったんだろうと。恨みや嫉みじゃなく、ただ工場で働く人達の為にと。父親の信念に沿っての事だと。
負債に関して工場との裁判になり、結果は負債は先生家族が負わない事に結審したそうです。それを期に母親は代表を退き、工場ともそして正浩さんとも決別して今に至るそうです。どちらも今はどうしているか知らないと。
先生がよく話していた正浩さん。地元紙とはいえ、大きく掲載されているのに驚きました。
まるで確認する様に何度も最初から記事を読み直し、まじまじと紙面に食らいついて見ました。先生の父親の話と重ね合わせながら。
そうしていると突然――。
「君、その人に興味あるの?」
背後からの男性の声。猫背だった背筋をピンと伸ばし驚いて振り返りました。
地黒で茶髪が目に付くガタイのいい男性が、いつの間にか笑顔で僕の背後にいたのです。
「興味あるの?」
驚きで返事しなかった僕に再び訊いてました。即答できずで慌て緊張しながら答えていた。
「いえっ……あの、凄い人なんだなと思って記事を読んで……」
「そう。君、高校生だよね? こんな時間に何でここに? ああ、ボランティアか」
「あ、ええっと課外実習です。必修なんです」