「いえ、いいんです。話したところで、あなたは村山さんでも光岡さんでもないのなら、大して意味をなさないから」
男はそう言って、すぐに言いすぎたことを詫びた。いえ、と山下は小さな声で呟き、ちびちびレモンサワーに口をつける。不思議と嫌な気持ちはしないのだが、それでも他人にシャットアウトされるのにはどうにも慣れないものだ。助けを求めるように山下は右を向いたが、それをするには随分と遅すぎた。女性たちは既に帰宅をしていたらしい。
しばらくして、山下のスマートフォンが再び震えた。彼は、意味もなく気がつかないフリをしてレモンサワーを飲み続けた。その連絡が、自分の待っていたものであろうとなかろうと、一喜一憂する気力がすでになくなりかけていたのである。
「スマホ、鳴っていませんか?」ふと気がついたように、男が口にした。「ほら、鳴っていますよね」
「え?」山下はとぼけた顔で、オヤジの誘惑に我慢できなくなって頼んだ金針菜を頬張っていた。「ほんとだ、気がつかなかったなあ」
「そんなわけないですよ、すごく大きな音じゃないですか」
「いや、本当に。この店のボレロの方が気になっちゃって」
彼の左爪は、再びテーブルの天板を弾いていた。
「開きたくないんじゃないですか、メッセージ」
その言葉に、山下は思わず男の顔を凝視した。男は笑っていたが、山下の顔があまりに本気ですぐに真顔に戻った。少しの間、スマートフォンの通知画面を眺めてから、山下は意を決してメッセージを開いた。ドクンと血流が全身に巡り、またしても彼の体は湿り気と熱を帯びた。
「メッセージ、女性からですか?」
「どうして?」
再び、山下は男の顔を振り向いた。男は、無言で首を振って、ジョッキの中にはいった氷をカランコロンと鳴らした。
「なんとなく、僕に似ていると思ったからです」
男は苦笑していた。数分ほど、二人の間には沈黙が横たわった。
「僕の彼女が、どうやら浮気しているらしいんですよね」ポテトサラダを一口頬張り、男はおもむろに喋り始めた。「村山さん、か、光岡さん。そのどっちかが相手だということはわかっているんです」
「それで、ですか」山下は、熱心に読んでいた数行程のメッセージから目を離し、スマートフォンを置いた。相変わらず、店内のボレロはリズムを刻む。「どうして『さん』付けなんですか? 浮気をしている相手なんだったら、もっと腹を立てて呼び捨てになるんじゃないかな」
「かもしれない、からです。正直なところ、それが村山さんだろうが光岡さんだろうが、僕にとっては大した問題ではないんですよ」
山下はぽけっと男を見つめていた。大した問題じゃないですか、と言いながらオヤジにもう一杯ブラックペッパーレモンサワーを注文する。
「僕が知りたいのは、単にあいつが、由里子がその人の前でどんな顔をするのかが知りたいだけなんです。僕以外の誰かの前で、彼女はどんな顔をして、どんな口調で喋るんだろうか。知りたくないけど、知っておかないといけないような気もして。無関心なのか、関心があるのか自分でもわからないんですけどね」
苦笑しながら、男はオヤジから生レモンサワーを受け取った。
「結婚式の時に、友達のですけどね、神父が言っていたんですよ。愛し、敬い、慰め合えって。この敬いが、どうにも僕は気になっていて。綺麗なところも、汚いところも、全部含めてその人ならば、どこまで僕はそれを無条件に敬うべきなんでしょうかね」
山下は、何か答える代わりにネギマを一本男に頼んでやった。男はネギマを天の恵みかのように喜び、オヤジが串皿に置くまでの数分の間に山下に二度お礼を言った。
「失礼ですけど」山下の左手は相変わらず動いていた。「お名前は?」
「神倉です」