「どれだけ走るか、が私たちにとって必要なことですからね。私もふとしたときに衝動にかられます。が、それをやるかやらないかはその人の美意識でしょうね」
美意識か、と山下は左爪のボレロのリズムを元に戻した。
「僕はこの美意識というものを、とにかく高めたいと思っていたところなんです」
「高めようと思って高められるものじゃないでしょう」タクシー運転手は苦笑した。「美意識は、あなたが既に持っているものですよ。好きとか、嫌いとか、そういう感情に素直に生きてみるだけです。少なくとも、付け焼き刃でなんとかなるものではないんじゃないでしょうか」
耳が慣れたのか、店内にかかっていたボレロが急にはっきりと聞こえ始めた。タタタタン、タタタタン、タンタン。山下の左爪も、腿のうえで踊った。
「すみません、年寄りの戯言を聞いていただいて。私はこの一杯で失礼しますので、どうぞ気になさらず」
「いえ、そんな」
次ぐ言葉が、山下からはでてこなかった。ただ軽く会釈をして、それからお互い前を向いて酒をすするばかり。そうこうしているうちに、本当にタクシー運転手は帰っていった。寂しいようなホッとしたような、連絡先の一つでも聞いて今度彼のタクシーを呼ぶべきだったなどと、幾ばくかの後悔の念もあったようだ。
ピロン、と山下のスマートフォンが鳴ったのは、彼がちょうどハツの串とオヤジ特製のポテトサラダを注文したときだった。胸のあたりが一気にキュッとなり、速くなる鼓動に合わせて汗がドバドバとではじめる。彼は、恐る恐る右手でスマートフォンに手を伸ばしてメッセージを開いた。
『ポイント5倍!9/28(土)まで…』
わざとらしく、大きなため息を一つついて山下はスマートフォンをぽいとテーブルに投げた。そうして、串皿に置かれたばかりのハツを、豪快に串の根元から一気に口でねぎりとる。食べ終わった串を串入れにいれようと山下が顔をあげると、オヤジは嬉しそうに笑っていた。
「お兄さん、うまいだろ」
総じて、オヤジというのは勘違いをするものである。それでも山下、違っていることは正すことができない男だ。そうする代わりに、とっても、と無理やり相好を崩して愛想を振りまいた。
「お兄さん、金針菜食ったか?」
「え?」
「金針菜だよ。ちっこい緑のやつが何本もついているさ。ほら、これだよ」
そう言って、オヤジは金針菜の串を振ってみせた。
「いえ、いただいていませんけど」
そうか、と言うとオヤジは手に待った金針菜の串をそのまま焼き台に載せた。パチパチと金針菜が炙られる音が、小気味よく山下の耳を刺激する。常連になるというのはこんな感じなのであろうか? と、その日初めて来店した山下は期待に胸を膨らませた。頼んでいないものでも、おすすめがあったらサラリとサービスしてくれる。帰れる場所があるような、安心感のある関係性があるような、誰かに認識されるということがこんなにも嬉しいものなのか、とこの一瞬のうちに山下は思った。
ところが、事実はいつも期待を裏切ってくる。オヤジは焼きあがった串を、そのまま別の店員に持たせて、本来行くべきはずだった客のところまで持って行かせた。山下は唖然としたが、オヤジは山下が自分のことをぽけっと見つめていることに気がつき、悪びれもせずニコッと笑う。かくして、束の間の常連気分はいとも簡単に終わった。それもそうだ、関係性の構築はそんなに楽なものではない。