「あ、すみません」山下は左手を自分の腿のうえに引っ込めて、そのまま腿で引き続きリズムを刻んだ。「うるさかったですよね」
「いえ、そうじゃなくて。なんでしたっけ、そのクラシック」
「ボレロ、ですか?」
「そう、それだ。ああ、良かった。スッキリしました。あなたがずっと机を叩いていて、聞き覚えがあったからずっと思い出したかったんですよ。ありがとうございます」
そう言って、男性は笑った。
山下は迷っていた。彼から誘いを直接的に受けたわけではないが、この誘いに伸るか反るかだ、と心の中で独り言をつぶやいていた。つまり、何かこの出会いが新しい仕事や莫大な財産、そういった”すごいもの”を生み出すのではないかと密かに期待していたのだ。
「ボレロ、お好きなんですか?」
ようやくひねり出た自分の言葉に、山下は少しがっかりした。
「え?」
「ボレロ、お好きなんですか?」
「ああ、いえ、そういう訳ではないんです。特徴的でしょう? だから耳に残っていたんですよ」
山下は少し左手の動きを遅らせた。
「そうでしたか。ところで、すごく素敵なスーツをお召しですね」
「いえいえ、ただの仕事着です。会社から支給されただけの、なんの想い入れもないものですよ」
事実は小説よりも奇なり。しかし、人生はいかに?
「なんのお仕事なんですか? 差し支えなければ」
「タクシーの運転手を。無論、いまは仕事終わりです」
男は快活に笑った。
「タクシーの運転手の方と、こういった場でお会いするのは初めてだなあ」
山下の串皿に、オヤジが出しそびれていたヤゲンナンコツが置かれた。山下は右手で串を持ちながら、左手ではほとんど止まりそうな速度でリズムを刻み続けた。少し上がりかけたテンションで忘れていた、ざわざわがまた心の中に戻ってきていた。
「そうでしたか。ならば、せっかくなのでタクシーを使うときの注意点を覚えて帰ってください」
「へえ、なんでしょう?」
「タクシーはできる限り、クレジットカードで払うようにしてください。特に、あなたが酔っ払っているときに助けになりますよ」
これには、山下も興味を持った。口に運びかけていたヤゲンナンコツを串皿に戻し、どうしてですか、と質問を投げかけるように男の顔を見る。
「運転手は、酔って寝てしまったお客様に手を触れて起こすことができません」タクシー運転手は、少し得意げな顔をした。「声だけで起こすんです。でも、タチの悪い運転手だったら、酔っているのをいいことに無駄な回り道をすることもあります。わざとメーターをあげるわけですね。そういう異常な金額になったときに、クレジットカードなら証左が残りますでしょ?」
なるほど、と山下はヤゲンナンコツに手を戻して、一つ頬張った。
「本当にそんなことをする人がいるんですか?」