だいたい宇梶のオッサンは俺に「マニュアルを客前で見るな」と言った。「制服を着たホテルマンである以上、お客様の前では堂々としていろ。いちいちマニュアルを確認するホテルマンなんか信用出来ないだろ?」だって。確かにその通りだ。確かにその通りだけど、ずぶの素人がマニュアルも見ずに接客出来るわけがない、というのも真実なわけで――。
「あ、あれ? お客様~?」
浴衣の展示スペースに、先程の客の姿はもうなかった。もともと単なる冷やかしだったのだろう。完全に俺の怒られ損だ。
「あ~あ。もうバックれちゃおっかなぁ」
「2」
「これ洗えるの?」
「返品は出来るの?」
「子供用はこれだけ?」
時間が経っても客の質問攻めは続いた。『実況パワフルプロ野球』というテレビゲームの中で、ピッチャーが連打を浴びた際にマウンド上でピヨピヨとへばってしまう事があるが、まさにあんな感じだ。今すぐ家に帰りたい。そもそも接客が苦手だから裏方の仕事を選んだのに、こんなの契約違反じゃないか。
マニュアルを見れば済む話なのに、客前では見るなと言われる。分からない事を質問しに行ったら行ったでイチイチ小言を言われる。もはや完全に宇梶アレルギーになった俺は、二度とフロントに行くまいと心に誓った。
そもそもこの浴衣レンタルサービスは、昨今のインスタ映えブームや、外国人観光客の増加に目をつけて始めたらしい。確かにサービス自体は素晴しいとは思うが、もっと現場で働くスタッフの事を考えてほしい。接客は勿論のこと、返却された浴衣の汚れチェック、更衣室の管理、購入した商品の郵送――これだけ業務が多岐に渡るのに、人手不足とは一体なんなのか。いくらお盆だからって清掃員の俺に――。
「キャンユーヘルプミー?」
いきなり外人客に声を掛けられた。外人の見た目は総じて若いが、さすがに「お婆ちゃん」と呼んで差し支え無いだろう。白髪で皺だらけの白人女性だ。
「キャンユーヘルプミー?」
「オウ、え~っと……」
正直、英語は全く話せない。だけど多分「聞いてもいいかしら?」みたいな事を彼女は言っている。俺がモゴモゴやっていると、そのお婆ちゃんは持っていた自分の携帯電話に向かって、質問とおぼしき英語を捲くし立てた。どうやら翻訳アプリのようだ。すかさず画面を見せてくる。彼女の携帯電話の画面には「これをどうやったら着られますか?」などと、たどたどしい日本語が表示されていた。
「オウ、オーケー、オーケー」
とりあえず彼女にそう返事をすると、今度は携帯電話の画面が俺に向けられた。翻訳アプリを使って説明してくれ、という事だろう。眼前に迫られた文明の利器がまるで挑戦状のようだ。俺は内心めんどくせぇなと思いつつも、ここの浴衣のレンタルシステムについて、ジェスチャー混じりで必死に言葉を絞り出した。
「浴衣、選ぶ、借りる。浴衣、着る、結ぶ、留める、オーケー?」
実際、ここの浴衣は羽織って結んで留めるだけなので、初心者でも簡単に着る事が出来る。ここのホテル名にもなっている「ドレスダウン」という単語は、着崩しとか、約束事にこだわらない服装をする事を指した言葉らしい。
「アイム、ケイティ」
「?」
唐突に彼女が自己紹介を始めた。どうやらお婆ちゃんの名前はケイティというそうだ。俺の事を我が息子とばかりに矢継ぎ早に話し掛けて来る。お婆ちゃんという人種は国籍問わずおしゃべりなんだろう。