さっきの商店街を海の方角へと戻る。角に豆腐屋と文具店がある路地を左に折れ、百メートルほど行けば旧田丸家だ。広大な敷地は高い木の塀で囲われていて、瓦屋根の向こう側に見える立派な枝ぶりが間違いなくそれであろう。
受付に座る美しいほど真っ白な白髪の女性に入場料の二百円を支払うと「ゆっくり見てってね」という言葉に送られる。庭に出ると、すぐにクスの木が視界に飛び込んだ。それはこれまでの人生で見たことのない巨大な木だった。
僕は吸い寄せられるようにして木に歩み寄り、両手のひらをその幹に当てて目を瞑った。無意識だったが、恐らくここへ来た誰もがそうするのではないかと思う。それくらいの包容力を感じる何かがあった。パワーをもらうというよりも僕の中に溢れる悪い気や、ちっぽけな悩みなんかを吸い取ってくれるような感覚。
「よしっ」
僕は目を開けると両手で幹をパンと叩いた。仰ぎ見る木の枝は、青い空の存在を隠すくらいに広くて大きい。
たかが三十数年程の年月しか生きていない僕など、なんと小さなものだろうか。そんな僕の抱える悩みなど、きっと取るに足らないものだ。
「すみません、この辺りでオススメの場所ありますか?」
次に僕は受付の女性に尋ねた。
「オススメったって、海くらいしかないんじゃないの? 皆んな、海を見に来たり魚介類を食べに来たりするんだし。この街は海でもってるみたいなものだからねぇ」
「そこをもっと、こう、地元の人だけが知ってるような場所って」
「うーん……それなら、商店街を抜けて山を上がった所にある幸(さい)ノ(の)神(かみ)神社かしら。観光の人はあまり行かないみたいだけど、夕陽が綺麗だし、人と人をつなぐ神様って言われてるから地元の若い子たちは縁を求めてお参りに来てるわよ」
「そうですか、ありがとうございます。是非……行ってみます」
さっき神社に行った時は、境内までは入ったが参拝せぬままだった。あそこまで行って、ただ海を見て帰るなんていうのは神様に対しても失礼な話である。
しかし、またあの坂道と階段が待ち受けていることを考えると気が重い。葛藤である。
夕陽が綺麗ならば夕方に行こう。そう決めた僕は一度ホテルへ戻ることにした。
ロビーにはツアーの団体客が賑やかである。皆んな、さっきまで歩いた街並みには無いような色をあしらった洋服で着飾っている。僕はその横を通り過ぎ部屋へと向かった。
窓際の椅子に座り、おばあちゃんにもらったおにぎりを頬張る。いつもコンビニで買う固くむすばれたのとは違い、口の中でほろっと崩れるのがちょうど良かった。何にも具が入っていないおにぎりだが、その美味しさは格別だった。お米が良いのはもちろんだが、何より誰が握ったか想像できることが美味しさの理由であろう。自動販売機やネット販売。希薄な人間関係は効率的ではあるが、どこか味気ない。
眼が覚めると時刻は五時だった。いつのまにか寝てしまっていたようだ。僕はマットレスの反発力を利用して、慌ててベッドから飛び起きた。
少し暑さが和らいでいるかと思ったが、商店街を歩く僕の背中を西日が照りつける。潮風は爽やかだけど背中だけが暑い。
今日二度目の坂道を上る僕は、まるで登山をしているかのような前傾姿勢である。それでも水平線に沈む夕陽を拝むため歩みを止めなかった。これまでの人生で海に沈む夕陽を見たことはない。いや、日頃の生活で夕陽を見た記憶すらない。だから、どうしても目に焼き付けておきたいのだ。