右か左か、二つに一つの選択である。どちらを選ぶか、そこに何の根拠も存在しない。そんな迷える僕の元へ現れたのは偶然にも一匹の黒猫だった。分かれ道の中間地点に座り「ミャア」とダミ声の鳴き声を一つ。「こっちへついて来い」と言わんばかりに右側の道を行く。ゆっくりと歩くその後ろ姿は、妙に自信に満ち溢れているように見える。人だけではなく、猫に僕の行く道を委ねてみるのも面白い。黒猫は時折、後ろを振り返って僕の姿を確認すると「早く来いよな」という表情を見せた。
必死に黒猫の後をついて行くと、とある民家の玄関前で行儀よくお座りをするではないか。そして、また「ミャア」とダミ声を一つ発する。その声に姿を現したのが、さっきのおばあちゃんだから驚きである。
「おや、クロ。にいちゃんを連れて来てくれたのかい」
おばあちゃんはクロと呼ばれる黒猫を抱きかかえ「さぁさぁどうぞ」と僕を家の中へと招いた。
外は九月だというのにまだ暑いが、家の中はひんやりと涼しい。海の見える窓を開ければ、潮風がよく通り抜ける。
僕は畳に座り、クロは座卓の下で早くもまどろんでいる。それはとても心地良い安心した顔だ。おばあちゃんがグラスに入れたお茶を持って来ると「どうぞ」とテーブルに置いた。その衝撃で重なり合った氷がカランと音を立てて崩れた。
「すみません、ありがとうございます」
「しっかり水分摂らないと、熱中症になっちゃうよ」
グラス持ち上げた手からその冷気が伝わる。僕は一気に飲み干した。
「おかわりいるかい?」
「もう大丈夫です、ありがとうございます」と僕は腹をさすった。
「にいちゃん、どこからやって来たの?」
「品川です。あ、東京の」
「旅行かい?」
「はい、そうです」
「一人で? 彼女と?」
「見ての通り一人ですよ、色々ありまして」
人間関係が希薄になり個人情報をとやかく言われる世の中であるが、ズケズケとプライベートに踏み込まれても不思議と全く嫌な感じがしない。
「この辺で、オススメの場所ありますか?」
「オススメの場所? そんなの今の時代ならスマホか何だかで調べたら分かるでしょうに」
「そうゆうのに頼らず巡ってみようと思いまして」
「そう言われてみるとねぇ……」とおばあちゃんは首を傾げたにも関わらず、数えきれない程の場所が口をついて出てくるのだった。
その中で気になったのが『田丸の大楠』だった。高さが二十メートル、幹周りは十五メートルもあるらしい。そんな巨木に触れてみれば、今の僕が生きていくのに必要なパワーをもらえそうな気がするのだ。
おばあちゃんの家を後にして目指すは田丸の大楠である。
家を出る時に「お昼ご飯にしなさい」と大きなおにぎりを二つもらった。見ず知らずの僕なんかに何とも親切なことだ。日頃の僕はどこかで損得勘定をしながら行動しているように思う。そんな自分が情けなかった。
田丸の大楠は重要指定文化財に登録されている田丸義一郎の屋敷の庭に聳えているそうだ。二百円の入場料を支払えば庭を見学できるらしい。結局は観光地かと思ったが、特にこれと言って他に珍しいものがある訳ではないので、わざわざ見物に来る観光客はあまりいないそうだ。