「──地元に帰ることにしたんです、この週末。もう引っ越しの手配も終わって……でも最後に、ここで切ってもらおうって」
鏡の中の、でもどこか遠いところを見ながら彼女は言葉を続けた。
「相方が、今年で区切りつけて新しい人生を選びたいんだって。考えてみたけどやっぱ、私の相方はあの子しかいないし、ちょうど実家の親も最近足腰弱ってて手が必要だし。長い間好きにやってきたから今後の人生、親孝行にシフトするのもいいかなーって」
彼女はふっと息をついた。
「もうすぐ三十でね、若手名乗れる感じでもなくなってきて。いい年だし、私も卒業の時期なのかなって。いつまでも夢ばっか追いかけてないで、現実を見て、区切り、そろそろ付けないといけないのかなって」
「──こみちさんのため、なんですね」
彼女は初めて、何も答えなかった。
今までで一番丁寧に心を込めて前髪を切り揃えていた私は、とても悲しげな顔をしていたのかもしれない。
「あ、やだな、そんな顔しないでください」
それに気付いた彼女が明るい声を上げた。
「地元は小さな田舎町なんで、時代先取りのこの髪型なら住民たちの熱い視線もほしいままですよ多分。都会風吹かせて帰れば町内会のインフルエンサー間違いなし。川べりの土手坂48で私センター張ってますから」
思わず私が吹き出すと、彼女は柔らかい表情で微笑んだ。
「あー良かった。最後に笑ってくれたお客さんが、お姉さんで。──誰かの笑った顔が好きなんですよ。だからお笑いやろうと思った。どんなに貧乏で、苦しくてもいい。その代わり、誰かが笑ってくれるならって」
見送りの時、今までと同じように私は器から彼女に一本の花を手渡した。
「春に咲く、雛菊です。……花言葉は、希望」
彼女はそれを摘まみ、白い花弁の雛菊を指先でくるりと回してみせた。
「地元にいた頃、通学で通る土手沿いにずっとこんな小花が咲いてたんですよね。──きっと同じだったような気がする。私はあの、道端に咲く名もなき花と。……名前も覚えてもらえなくても、その花に気付いて、立ち止まってくれた誰かが、ほんの少しでも笑ってくれたらって」
顔を上げた彼女は、どこか晴れやかな表情をしていた。
「お姉さんが考えてくれたこの髪で、私は胸を張って地元に帰ります。向こうで次にどんなことするかは、まだ決まってないけどでも、鏡を見るたびに思い出せると思う。八年の間、ここで私が誇りを持ってやってきたことを」
切り揃えた毛先に触れ、それから彼女はいつものように明るく手を振って、表へと続く扉をくぐった。私はその後を追いかけると深く頭を下げて、見えなくなるまで彼女の背中を見送っていた。
季節が過ぎるたび、店の入り口に飾られた花も変わる。
それぞれの季節の花を見かけるたびに、まっすぐ夢に向かっていた彼女のことを私は思い出した。──最後に渡したあの花が、せめて彼女のそれからの人生に希望を添えているようにと願いながら。
カウンター上のガラスの器にまた白い雛菊を飾る。その時、ドアベルの音が軽快に鳴り響いた。
「いらっしゃいませ!」
美容室BOUQUETに再び春がやって来たある日。ベルの音と共に聞こえた少し懐かしい声に、振り返った私は、思わず微笑んだ。