その不文律を破ったのが、韓国が誇る硬派マッチョ俳優マ・ドンソク似の権藤さんである。私が見るべきかどうか迷っていた、ベルギーの単館系映画のレビューを読んでいるときだった。どうしてですか、と聞く私に、彼は四角い顔で大まじめにこう言った。
「動物が死にます」
へえ、と生返事をした足でくだんの映画を見に行ったが、確かにあんまり面白くなかった。ヒロインの飼い犬が死んだことと、主人公の葛藤が陳腐でストーリーに起伏がなかったこととの因果関係は不明だが、権藤さんの忠告は結果だけを見れば正しかった。
「面白い映画は動物が死なないんで」
2度目に担当してくれたとき、彼は仏頂面でそう断言した。
「そうかなあ。例えば?」
「キングスマン」
「ほかには?」
「アメリ、恋愛小説家」
「それだけ?」
「レオンとか」
「観葉植物を動物に入れるのは反則でしょ。大事にしてたけども」
「エイリアンも」
「猫の代わりに人間いっぱい死にますけどね」
意地悪くそう言うと権藤さんは黙ってしまった。ちょっと申し訳なかったので、私は次から彼をスタイリストに指名することにした。エイリアンは名作だし、動物が死なないのは確かだったから。
それに権藤さんは、私がよっぽどのダメ映画を見ようとしていない限りは話しかけてこない。加えて彼の審美眼はなかなかどうして鋭いのだった。ヤン・クロムブルッヘなんてマイナーなベルギー人監督作品を見ているだけのことはある。
***
どうやらここは自宅ではないらしい、と気がついたのは、目を覚ました数秒後だった。壁の見慣れぬ時計は5時30分を指している。昨夜は彼氏に振られて、家で冷蔵庫のビールを全部空にして、美容室に行って。つけた覚えのない加湿器の音がする。私はシャンプー台の上にいた。
「何やってんだ私……」
まずい。どうしよう、私坊主にしちゃった! 来週も普通に仕事あるのに、うち保険会社で私は経理なのにどうしよう、なんて言おう。どうしよう、髪が伸びるまで休むかそんなことできるわけないよ言うのか? 「失恋で坊主にしました」て言うのかないないそんなのありえないーと思わず頭を抱えたらあった、髪が。んあ? あれ、あるぞ。髪。
「おはようございます」
振り返ると、モップを持った権藤さんが立っていた。服装は昨夜と同じ、グレーのワークシャツにチノパン。照明が落とされた薄暗い店内、無骨な顔は逆光になっていていっそう感情が読み取れない。
「おはよう、ございます……」
朝の挨拶をしている場合ではむろんないのだが、とはいえいったい何から話すべきなのだろう。美容室で泥酔してしまった謝罪か、シャンプー台で一晩寝せてもらったお礼か。それとも要望どおり坊主にしてくれなかったことへのクレームか。やるべきことの渋滞で頭がジャムっている私に構うことなく、権藤さんはモップがけを再開する。
「あの、権藤さん、私」
「『G.I.ジェーン』で主人公が坊主にしたのは長髪が邪魔だったからだし、リプリーが『エイリアン3』で頭を剃ったのは宇宙シラミ対策でしょう」
視線は床のまま、権藤さんは淡々と言う。
「ロングヘアーだろうと丸刈りだろうと、リプリーは強くてかっこいいんです。違いますか」
ピピ、と電子音が鳴り、権藤さんはスタッフルームへ消えた。シャンプー台のアラサー女はひとり寝起きの間抜け面をさらすほかなかった。えっと私、今、もしかして怒られてますか?
程なくして権藤さんは湯気の立つマグカップをふたつ手に戻ってきた。