ゴンドーさんお願いします予約してないんですけど、と告げると、レセプションの子の目が少し泳いだ。マスク越しでも酒臭いのが伝わっただろうか、いやもうこの際どうでもいい。返事を待たず待合の椅子に座ってねばついた唾を飲み下す。マスクの中の自分の息でむせそうになる。
権藤さんはいつもどおりの無表情で、閉店間際に飛び込んだ私をカットチェアまで案内してくれた。彼が特別動じない性格なのか、あるいは美容室ではよくあることなのだろうか。前を行く大きな背中に向かって問いかける。失恋した酔いどれ女が発作的に髪を切りに来る、って“隠れた美容師あるある”だったりしませんか。
金曜の夜、鏡の前は8割方埋まっていた。皆手元の電子雑誌や美容師とのおしゃべりに興じてくれていて助かる。今私の目はそうとう据わっているだろうから。
「『エイリアン』に出てくるリプリーみたいにしてください」
席について開口一番そう言うと、ケープを巻く太い指が止まった。私は毎度「伸びた分切ってください」以外のオーダーはしないし、予約した時間の5分前に来るし、しらふだ。権藤さんが戸惑うのも当然だ。
「ええと……シガニー・ウィーバーですね」
さすが権藤さん、理解が早い。エレン・リプリー。エイリアンシリーズでおなじみの、戦う女。
「すみません、根元からスパイラルかけるとなると今日は時間が厳しいです。日曜午後か月曜なら僕空いて」
「違うんです、違うの」
頭を大きく振って否定の意を示すと、酔いがどんどん回って耳の先まで熱くなる。鏡の赤ら顔を直視できず、私は目を閉じて一息にしゃべった。
「『エイリアン3』のときのリプリーみたいにしてほしいの。それならできるですよね」
一拍置いて、できるですが、と権藤さんの低い声。
「3、でいいんですよね。2や4ではなく、3で」
「そうです」
「念のためですけど、要は坊主ですよね?」
「強い女になりたいんですう、私はあ」
答えになっていたかはわからない。権藤さんは、バリカン出しといて、とアシスタントに短く告げた。
私の担当スタイリストは顔も体形もマ・ドンソクそっくりなので、バリカンやシザーよりツルハシとかラグビーボールが似合うと思う。
***
美容室で渡されるのが雑誌からタブレット端末になったのは、2020年の数少ないうれしい出来事のひとつだ。
これまで絶対置いてなかった『映画秘宝』も『キネマ旬報』も、電子書籍なら選び放題。他人と天気や仕事の話をするのはおっくうだし(保険会社の経理の話なんてどこで盛り上がればいいのか)、ファッション誌も興味がないので髪を切る時間は手持ち無沙汰だったが、これならと俄然通う意欲が湧いた。座るやいなやタブレットをオンにする客に話しかける果敢な美容師はいない。まして読んでいるのが『ホラー映画クロニクル』ならなおさらだ。
「それ、やめたほうがいいですよ」