「でも、でも、『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンだって髪切るじゃないですか」
「アン王女がショートにしたのは追っ手の目をくらますためでしょ」
「そうでしたっけ。てか私なんで怒られてるんですか? それとコーヒーありがとうございます」
「怒ってないし、コーヒーあげるとは言ってません」
権藤さんはそう言いつつも、片方のマグカップを差し出してくれる。爪の先が黒い、美容師の手。マグに口をつけると、寝起きの頭にカフェインが染みた。
「牧野さんが本心から坊主にしたいのなら喜んで切りますよ。でも違うでしょ」
「なんで権藤さんにそんなことわかるんですか」
「だって3年付き合った男に自粛期間中に浮気された挙げ句に、その相手が高校からの親友で」
「ちょっと待ってください、ちょっと」
「その上向こうから別れを切り出されるっていうのは確かに僕としても多少は同情の……」
「ちょっと待ってってば! どうして」
動揺のあまりコーヒーを手から落としかけた私を見て、権藤さんの細い目がいっそう細くなる。
「どうしても何も、シャンプーされてるとき自分で全部しゃべってたじゃないですか」
「嘘でしょ」
「店中に聞こえるぐらいの大声で」
「嘘嘘」
「その後いびきかいて寝てしまいましたけど」
「マジですか……」打ちひしがれた私はマグの中の漆黒を見つめた。今の自分にできることはこのぐらいのものである。
「とにかく」権藤さんはズズ、とコーヒーをすすった。
「髪、確認してもらっていいですか」
「え?」
私はもう一度頭に手をやる。さっきは髪の存在に安堵するあまり気がつかなかったが、確かにハサミが入れられていた。
***
「おお……」
申し訳程度に毛先を整えるぐらいかと思ったら、この人意外と大胆だ。鏡には、昨夜とは別人の自分がいた。
前下がりにカットされたサイドは先端にパーマが当てられていて、ふわりと軽い短めボブに仕上げられている。極めつけは前髪で、潔くオン眉にそろえられたショートバングス。しっとりとまとまっているが、奔放な毛先のせいか重たくはない。キュートさの中で小さな野性味が跳ね回っている、冬眠から起きたての子熊みたいな。
少し驚いたけど、率直に言って悪くはなかった。おでこが朝の空気を感じている。
「かわいい。でもこれ……アメリ?」
「ええ、イメージは」
「アメリって強い女ですかね? むしろ対極じゃないですか?」
「とんでもない。リプリーやオニールにも負けないと思いますよ」
帰ったら見直してみてください、と権藤さん言う。
「ふうん。でも新鮮でいい感じです。ありがとう」
「よかった。意識ない人をカットするのって案外難しいんで」
「権藤さんも、寝てるお客の髪勝手に切っちゃうなんて、けっこう思い切ったことするタイプなんですね」
困らせてやろうとしたら、権藤さんは「すみません」と頭を下げた。
「でも僕、『強い女』って、少なくとも衝動に任せて男みたいな髪型にするってことじゃないと思ったんです」
権田さんはダッカールを手で中でいじりながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「丸刈りだってかっこいいですよ、本当にそれが好きでやっていればね。失恋して髪切るのも気分転換にはいいでしょう。でも昨日の牧野さんみたいにやけになって当てつけみたいに切ったら、なんというか……髪がかわいそうです。それに、牧野さんにとってもよくない」
「こっちだってごめんなさい」
私も鏡の中で頭を下げる。「いきなり来て酔って騒いで寝ちゃうし、権藤さんも私に付き合ってお店にいてくれたんですよね」
「あらためて言葉にされるとなかなかすごいですよね」