少し視線を落とした結衣さんの表情に、あの日、誰もいないコートで何度もサーブを打つ結衣さんの顔を思い出した。
結衣さんは高校時代のテニス部の一つ先輩。面倒見がいい優しい人だったけれど、負けん気が強い努力の人でもあった。私は正反対の泣き虫。今もあまり変わらない。
「奈々、泣かないの! よく頑張ったって笑おう!」
ポジティブに考え、気持ち新たに次のステップへ進む。それが結衣さんの考え方。事実、結衣さんが泣いたところを私は見たことがなかった。
県大会の決勝戦。勝てば全国大会出場が決まる一戦で逆転負けした時でさえ、結衣さんは笑顔だった。
「私、県で二位よ。すごくない?」
そう笑ってピースを向けた結衣さんが、翌日の朝練からみんなより三十分早くやって来て一人黙々とサーブの練習をしていたことを私は知っている。そのときの結衣さんは、いつもと別人のように険しい顔をしていた。
私は高校を卒業して美容専門学校に進んだ。美容師の免許を取って働き始めた美容院で結衣さんと再会した。五年ぶりだった。
結衣さんは小学校の先生になっていた。私もこんな先生に巡り会えていたらな、って思うような先生に。
社会人となり進む道は違っても、やっぱり結衣さんは私の先輩だった。私が仕事の悩みを漏らしても、あの頃と変わらない調子で私の背中を押してくれた。
三十歳になった。自分なりに努力した甲斐があり、新規オープンする店舗の店長を任されることになった。
「雰囲気、いいじゃん」
初めてのお客さんは結衣さんだった。
「ガーベラ、かわいいね」
さすが。結衣さんはすぐに気付いてくれた。店舗の内装デザインにも少し関わらせてもらい、レジカウンター後ろの白い壁紙にワンポイントだけガーベラの花をあしらってもらった。
「ええ、あの頃の気持ちを忘れないように」
そう、あの頃―
ラケットを握り、汗を流して駆ける私たちのユニフォームの胸には、ガーベラの刺繍が入っていた。結衣さんが提案したものだった。みんなが共通した思いで頑張れるようにと。
結衣さんは月に一度のペースで来店してくれている。閉店間際の最終時間に予約を入れ、ゆっくりと話をしながらカットする。
私は美容師の仕事が好きだ。素敵な仕事だと思っている。
新たな決意を抱く時、気分が落ち込んだ時、旅立ちの時、勇気を振り絞る時……その人の人生の大切な瞬間に関わることができるから。
だけど、結衣さんのカットをしている時だけは少し違った。結衣さんには申し訳ないけれど、この時間は私自身のためでもある。あの頃の気持ちを取り戻せる最高の時間なのだ。誰かを幸せにすることができる仕事に就きたいなんて、ただ純粋にそれだけを考えていた純真無垢な十代の私にかえしてくれる。それが結衣さんと過ごす時間。
結衣さんが来なくなって、連絡も途絶えて、私の心にはぽっかりと大きな穴が空いてしまった。当たり前だったことが、そうではなくなった。
朝に霜が降り冷たい北風の吹く冬がやって来ても……桜が咲き蝶がゆらゆらと舞う春になっても……
良からぬことさえ頭をよぎり、漫画のように自分の頬を思いっきりビンタした。