席に戻ると、伊藤さんは「じゃあ、いっちゃうね」と笑いながら髪を軽く梳かした。濡れた髪は自分の認識よりもはるかに長く、毛先からこぼれ落ちた水滴が、クロスに複数の筋を作り上げる。髪の毛が軽く引っ張られるのを感じると、少しだけ、ハサミの入る振動が走る。(ああ、さようなら)私の毛先は過去の蓄積だ。欠かさずにケアしてきた日々や、浩介に泣かされた過去。まるでキリトリセンのように、伊藤さんが「私」と「過去」を肩につくかつかない場所で分断していく。もう戻れない。
「大丈夫、こんだけ切ってもまた伸びてくるから」伊藤さんは私の顔を見て頷いた。そんなことは知っていたはずなのに、なんだか有難い言葉に聞こえた。切られたばかりのとぅるんとした毛先が、たちまちスタート地点のように感じてくる。今日からまた、髪の毛が伸びていくたび、過去が積まれていく。キリトリセンは、何度でも生まれてくるんだ。私はまた何者にでもなれる、そう思うと気分がぐっと軽くなった。
伊藤さんは手際よくその後のカットを済ませると、切った毛を払うようにドライヤーをかける。右手で出来たばかりの「スタート地点」に触れる。髪が揺れるたびに香るシャンプーの香りが、私をよりいっそうはずんだ気持ちにさせた。セットまで終えると、伊藤さんは私の肩にかけていたタオルとケープをそっと外す。大した重みはなかったはずなのに、外された瞬間身体がすっと軽くなる。(出産ってこんな感じなのかな)なんて思いながらも、新しい自分が生まれた気がして目の前がぱあっと明るくなる。もうきっと、大丈夫だ。この子もきっと育てていける。それだけじゃなく、世間と戦う私も愛し、育てていく。
「ありがとうございました。また、落ち着いたら来ます」見送りに来た伊藤さんにお礼を伝えドアを開けると、風がふわっと髪をわずかに揺らした。新しい私は、堂々と生きよう。人の戯言なんて、脇役のセリフにすぎない。主人公として、この子を飛び切り愛そう。辛くなったらキリトリセンを切り取ればいい。きっとまた、新しい自分になれるはずだ。
もう、なにも怖くなかった。