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『キリトリセン』内野紅

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 「あの、良かったら座ってください」
 渋谷から表参道に向かう銀座線の車内で、目の前に座る女の子が席を譲ろうと声をかけてきた。もうすぐ秋も終わりだというのに薄手のカーディガンを一枚羽織っただけの二十歳くらいの女の子だった。土曜の昼間ということもあり、混み合った車内。声をかけられた私に周囲の視線が集まった。咄嗟に、自分のお腹に手をやる。さすがに食べ過ぎとは言い難いほど膨らんだお腹が、そこにはあった。
 「次で降りるので大丈夫ですよ、でも、ありがとうございます」
 そう言うと女の子は立ち上がろうとした姿勢を座席に戻し、照れくさそうに会釈をした。自分もこの女の子くらいの歳、正確には十年前にはよく席を譲ったものだ。三十歳に近づけば近づくほど、日々の疲れからそんなことは出来なくなってしまったが。平日の通勤ラッシュ時は運良く座れた席を離すまいと寝たふりをしてしまうこともある。この子もそんな風になるのだろうか。そんなことを考え始めた頃、電車は表参道駅に着いた。

 「十三時に予約しています、奈倉由宇(なくらゆう)です」
 美容室のフロントの男性が、タブレットで予約を確認する。慣れた様子で私を席に案内すると、少しお待ちくださいね、と声をかけ忙しそうにフロントへ戻っていった。
 美容室ロマレアには、通い始めて五年になる。それまでは、いわゆる美容院ジプシーだった私が何年も通い続けているのには「伊藤さん」の存在が大きい。伊藤さんは私より五つくらい上(年齢を聞いたことはないから本当はもっといっているかもしれない)の男性美容師だ。副店長をしているだけあって技術は大したもので、いつも要望通りにこなしてくれる。しかし何よりも、伊藤さんが醸し出す私との「距離感」に惹かれて通い続けている。伊藤さんは私という「客」に必要以上に踏み込んでこない。伊藤さんは私の職業も、年齢も、家族構成も、最近見た映画も、何も知らない。知っているのはカットの頻度だけ。ジプシーをしていた頃は美容師さんに施術中、彼氏の有無や好きなタイプ、休日の過ごし方を根掘り葉掘り聞かれ続けることに嫌気が差していた。向こうも大して興味がないくせに、無言の空白を恐れるようにおしゃべり人形を演じあう。世界一無駄な会話だと思っていた。そんなときに偶然予約した美容室で出会った伊藤さんは、踏み込んだ会話をしてこないだけでなく、無言のテンポがとても心地よかった。施術中に私が顔をあげると、最近買ったハサミの話やカラー剤の話をしてくれる。しかし長々とは話さず、すぐに気まずくない心地よい無言を挟んでくれる。伊藤さんは私のことをなにも聞いてこない。だから何も知らない。それが美容室にいる時間だけはプライベートの肩書きから解放されて、何者でもないことが許されているようで心地良かった。
 「奈倉さんこんにちは!今日もお願いします」男性らしい低い声に顔を上げると、伊藤さんと鏡越しに目があう。伊藤さんは夏でも冬でもニット帽を被り、肩まである長い髪を下ろしていた。ニット帽とは真逆の季節感の白いTシャツ姿で、いつもと変わらない挨拶を交わす。今日はどうしますか、と言われた瞬間、自分のささいな肩書きの一つを明かす決心がついた。
 「妊娠してるんですけど、産んだらしばらく来られないし、髪の毛乾かす時間もないらしいんで、ばっさり切っちゃってください」
 伊藤さんは、おめでとうございます、とだけ言うとそれ以上詮索はせずに私にクロスを着けてくれた。クロスに腕を通す瞬間、左手の薬指に指輪がないことが恥ずかしくなる。銀座線で会った女の子も、受付の男性も、伊藤さんも、私のことを哀れな女だと思ったのだろうか。妊娠はしている、だけど、結婚も婚約もしていないし、これからもしない。「シングルマザー」という肩書きを明かす決心はしていたはずなのに、どうしようもなく恥ずかしくなってしまった。社会的な立場に執着するなど、くだらないとはわかっているけれど。だけど、悔しさとも恥ずかしさとも受け取れる感情に打ち勝つことができない。目の前の鏡に映る、数ヶ月前に比べて十キロ太った自分の姿が、途端に醜く見えてきてしまった。どうしてこの肩書きを私は選んだのだろうか。

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