「シャンプーして、カットしていくね」
伊藤さんはテンポ良く準備を終えると、私に説明をする。その後アシスタントを呼ぶと、じゃあいってらっしゃいと声をかけた。アシスタントが私をシャンプー台に案内する。顔にガーゼをかけられると、リクライニングチェアは下がり、シャンプーが始まる。目を閉じると、先ほどのメランコリックな気持ちが蘇ってくる。思い出したくない思い出を連れて。「彼」との結婚を願ってやまなかった日々を。
「浩介」は会社の同期で、新入社員の頃から約七年付き合った。大学時代に浮気性の男に泣かされ続けた私は、浩介の真面目さに衝撃を受けすぐさま恋に落ちた。二人が出会った新入社員懇親会で泥酔し、終電を無くした私を連れ入ったラブホテルで、一切手を出してこなかったことが真面目さを知るきっかけだった。(タクシーに乗せてくれたらいいのに、ホテルで看病してくれるなんて優しい)と当時の私は感動した。今思えばひどい感受性だが、男性不信になりかけていた私にとっては恋に落ちる理由として十分だった。付き合ってからも実直な男で、記念日にはサプライズでレストランに連れて行ってくれたり、彼が飲み会に行く際は一時間に一回連絡をくれたりした。女友達に浩介のことを話すときは、「大学時代の彼氏は、ただの恋だったんだよね。結婚するような相手は、今みたく深くて真面目に向き合う愛じゃないとダメだよね」なんて偉そうな口ぶりで語る夜もあった。本当に恐ろしいほどに順調だったのに。三十歳という節目を迎え、結婚を意識し始めたタイミングで、突然別れを切り出された。「俺が悪い、由宇はなにも悪くない」と理由も言わず主張し続けるくせに、泣いて縋る私を邪魔者のような目で見下ろした。渋々了承すると、心底ほっとした顔をする浩介を見て、愛なんて初めから無かったんじゃないかとすら思った。やっと浮気の心配をしなくていい彼と結ばれる思ったのに。運命の人だと思ったのに。最愛の人との別れはひどく屈辱的だったが、幸いなことに仕事の忙しさは私の傷を癒してくれた。
彼の婚約が発覚したのは、その翌月だった。絶望はいつも、自分が一番望んだものを奪うためにやってくる。浩介は交際中から何度も浮気を繰り返していたと後から聞いて知ったが、悲しみよりも納得する気持ちの方が強い自分に驚いた。私は「そういう男性」が好きなんだ。浩介だって今までの彼と何一つ変わらない。ただ少しだけ隠すのが上手かったのだ。私は一生、女性の影に怯えながら生きるしかない。それだけのことだ。
卒倒するような出来事を割り切れたのも、婚約のニュースとほぼ同時自分の妊娠が発覚したせいかもしれない。私は無理矢理に、強くならざるを得なかった。憎くてたまらない男の子どもを、もうすでに愛してしまっていたからだ。愛と憎しみは紙一重とはよく言ったものだ。だが愛を感じても、現実的な心の準備はなにひとつ付いてこない。お腹の子は、ただすくすくと育っていくだけだった。
憂鬱なことを考えながらも、少しずつ眠気に誘われていることに気がつく。間違いなく心地よいシャンプーのせいだ。アシスタントは、日々の疲れを癒すようツボを押しながらマッサージをしてくれる。時折丁寧に伸ばしたつもりの髪の毛をそっと泡で撫でる。この感触を味わうのは、もう何度目だろうと考える。思えば大学を出て社会人になってから、毎月のように美容室に来ていた。いわゆる難関大学を出て、それなりに良い会社に就職をして。借り上げの寮費や食費を差し引いても、自分のために使うお金には困らなかった。胸まで綺麗に伸ばした私の髪の毛は、正直自慢できるポイントのひとつだった。だが自慢だからこそ、子供に引っ張られたり、ドライヤーができず自然乾燥したりするような真似はしたくない。まだ見ぬ我が子にすでに制限される自分自身。息苦しい気持ちで、心臓までずんと重くなる。シングルでなければ、こんな憂鬱な気持ちにはならなかったのだろうか。旦那と手放しで喜びを分かち合えたのだろうか。シャンプーを洗い流しているシャワーの音を脳内でかき消すように、妊娠を報告したときの会社の上司の声が脳内で響く。「結婚してたっけ?」や「でき婚?」という質問たちは、笑顔で流してきたつもりだ。上司だけではなく、普段は優しい友人たちでさえ聞いてもいない「自分だったら産まないな」だとか「自分だったら男に責任取らせるなあ」だとかをまるで優しさかのようにぶつけてきた。私の人生の主人公は、私だけのはずなのに。シャンプーが終わりタオルドライで強めにかき回される頭は、私のイライラを表しているようだった。