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伊坂くんと一緒に都内の病院に訪れる。
心臓が高鳴る。足取りが加速する。息が弾む。歩いて、走って、歩いて。エレベーターを使わないのは、早く会いたい気持ちと会ってどうするのかという気持ちでせめぎあっていたからだ。彼との距離をしっかりとこの足で確かめたいからだ。もう少し、あと少し。
そして、お姉さんのいる病室の前まで辿り着く。静かに、何度も深呼吸をする。繊細さを吸って、淀みを吐いて、数度、胸を叩く。ゆっくりとドアを開ける。少しずつ中の様子が覗き、光が差し込む。お姉さんの顔が一瞬だけ見えて、心臓が高鳴るのを鮮明に感じる。
「お、お久しぶり、です」
声がうわずる。泣きそうになる。
月日が流れたからじゃない。私の記憶が薄れたからじゃない。記憶の中で鮮明になびいていたお姉さんの長い黒髪が、今では見る影もなくなって坊主になっていたからだ。
伊坂くんに教えてもらった本の中に書いてあった病葉みたいだ。秋の落葉期を待たずに変色してしまった葉のこと。まだ、なにもかも失うには若過ぎる年齢なのに。
「投薬治療の影響なんだ」
伊坂くんが小さな声で私に教えてくれる。
「……透の彼女?」
そう言ってお姉さんは笑っていたけど、その声に明るさはなかった。
「違うっての」
伊坂くんに椅子を用意され、うながされるままに座る。
すぐに否定されてしまったことになんだか悲しさを覚えた。
長い沈黙が続き、気まずさが部屋を包む。私が訪ねてきたのだから、私から話をするべきなのかもしれない。実際、お姉さんに伝えたいことがあったから会いに来たのは確かだ。
言葉が声にならないまま消えたあと、やがて精一杯の一歩目として振り絞る。
「昔、お姉さんに髪を切ってもらった小学生です、お姉さんは私に『髪には記憶が宿る』と教えてくれました。だからその日以来、私はずっと髪の毛を伸ばしてきました」
お姉さんはしばらく目を丸くすると、小さく「あぁ」と呟く。
「そういえば私って美容師だったね。ごめん。私、あんまり昔のことって覚えてないの」
知識がない私にはお姉さんがどこまで記憶を保っているのかわからなかった。
『髪にはね、記憶が宿っているのよ』
あの日、お姉さんがそう教えてくれたように、ほんのりと温かくて、やんわりと柔らかい長い黒髪を失って、お姉さんの記憶も一緒に抜け落ちてしまったのだろうか。
「覚えてなくていいです。でも私にとっては大切なので、私がずっと覚えてます」
花の髪留めを外して、そっと机の上に置いた。
「そっか、ありがとね。忘れるまで忘れないようにがんばってみるよ」
お姉さんが花の髪留めを手に取って、ゆっくりと頭に近づける。
「またおいで。専門的なことはできないけど、髪を整えてあげることはできるからさ」
「はい」
けらけらと笑うその声に、例え気のせいだとしても、確かにあの日のお姉さんを感じた。
伊坂くんのことも、将来のことも、お姉さんのことも。何年も時が経ったあとで、いつか全部「あの日は良かったね」と笑える日が来たら、この長い黒髪を切ろうと思う。
そのときまでは、どうか、なにもかも忘れてたまるか。