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「髪にはね、記憶が宿っているのよ」
当時、小学生だった私を飽きさせないために、美容師のお姉さんが話してくれたことを今でも鮮明に覚えている。エウロパを泳ぐ鯨の話。涙の代わりに宝石が流れる話。晴れのちヒヨコの天気があった話。どれもが嘘っぱちだけど、そのどれもが愛しく思えた。
「記憶?」
「よく同じ話題を繰り返す人っているでしょ?」
言われて思い返してみる。おじいちゃんに連れられて床屋で待っているとき、おじいちゃんはいつもお店の人と同じ話をしていた。定休日はいつだったか。町内会長の娘さんはいくつになったのか。お互いの名前。床屋に来る度に恒例行事になっている。
「確かに。え、それって関係あるんですか?」
「髪は思い出を栄養にして伸びていくの。だから、髪を切ると記憶も切り取られるのよ」
そう、なのかな? 悩んで「はぁ」と曖昧な返事になってしまう。
「女の子は失恋したときに髪を切るでしょ。……って、今どきそんなの古いか」
「……いえ」
「辛い記憶を忘れるために。思い出さなくてもいいように。だから髪を切るのかもね」
考えてみればおばあちゃんを亡くしてからというものの、おじいちゃんが床屋に行く機会が増えていた。辛い記憶。思い出したくない記憶。おじいちゃんが亡くなる数ヶ月前から、私のことを忘れちゃったこと。あれは、私のことが嫌いになっちゃったのかな。
「お姉さんは失恋したことないんですか?」
「あるよ。あるけど、それも良い経験なのかなって忘れたくないの。梢ちゃんは?」
「私は……」
同級生の伊坂くんが頭に浮かぶ。成績優秀でもなく、スポーツ万能でもない。休み時間にはいつも図書室で借りた星座図鑑を読んでいる男の子が、私はとてもとても好きなのだ。
でも、それを実際に好きとか嫌いとか口にするのはなんだか気恥ずかしい。それを察してくれたのか、お姉さんが鏡越しに「いいのよ」とほほえんでくれる。
「だから私は美容師になったのかもね」
「どういう意味ですか?」
お姉さんの長い黒髪が私の頬に触れる。ほんのりと温かくて、やんわりと柔らかい。
「悲しい思い出や苦しい出来事を忘れさせてあげるために。なんて傲慢かしら」
鏡越しに映るお姉さんの瞳から、一滴の涙が流れた気がした。
「あぁ、そうだ。これ、梢ちゃんに似合うと思って買ってきたの」
そう言ってお姉さんは、ポケットから花の髪留めを取り出して私の髪に付けてくれた。
今までこういったおしゃれをしたことがなかったから新鮮だった。お母さんが出かけている隙を見てこっそり塗った口紅より、全然、まるで私じゃないみたいにかわいかった。
「私からのプレゼント。お題は結構よ」
「そんな、……いや、払います!」
そこでお母さんからカット代ぴったりのお金しかもらってないことを思い出して戸惑う。
「いいのよ。私にも梢ちゃんと同い年の弟がいるから、甘やかしたいのよね」
「でも……」
鏡の中の私を見る。もうしわけない気持ちと嬉しい気持ちがせめぎ合っていた。
「まぁ、しばらく留めてみて。本当に嫌だなと思ったら今度返しに来て」
「……はい」
無理に断る必要もないし、実は私自身でも結構気に入っている。もっと髪が伸びて、もっと似合うようになったら、またお姉さんに髪を切ってもらおうと思った。
けれど、その日を最後に私はお姉さんと会うことはなくなった。