その日、遅くまで飲んだ私は、ふらふらとホテルの部屋に戻った。
相方はすでに眠っていた。
カーテンが少しだけ開いていて、光の線が部屋に差し込んでいた。
私は化粧台の前に座って、軽い溜息をついた。
メイクセットが散らかったままだった。
眉ハサミを手に取り、前髪に少しだけ入れてみる。
切れた髪がどこにいったのか、わからなかった。
言いようのない味気なさを感じた。
「いやぁ、この度ね」
「ねぇ」
「うちの相方が結婚することになりまして」
「すみません、ホントに。ありがとうございますぅ」
「今なんか客席がざわざわしたような」
「してるか! めでたい報告や」
「何年付き合ったん?」
「学生時代からだから……、んんん年になるかなぁ」
「ゴマかさんでええやん。結婚する人間が」
「そこはさ、ねぇ。ちなみにアンタは? 彼氏いない歴」
「学生時代からだから……、んんん年になるかなぁ」
「正しいごまかし方。模範回答」
「まぁね。んんん年、誤魔化しながら生きてきたからね」
「年季入っとるわぁ」
「大阪、戻らへんか?」
楽屋で相方とふたりになった時だった。
結婚の報告を聞いた後、いつかはそんな話を切り出される予感がしていた。
相方の相手は大阪にいる。結婚を機に、生活の基盤を大阪に戻したいというのは尤もな相談だった。
「そやな。そういうことも考えんとあかんよな」
「ごめんな」
「ええねん。結婚するからって、漫才やめるわけやないんやろ?」
「当り前や」
「そやったらええねん。漫才取ったら私、何も残らへんから」
「……」
「大丈夫や。大阪で喋りまくればええだけや」
相方は、「ごめん」ともう一度頭を下げた。
短い髪が、床に軟着陸していく。
不思議と長い時間、飽きずに見ていられた。
糸井君のスニーカーが視界に入ってきて、私の髪を踏んづけた。
「痛っ」
「どうかしましたか?」
後ろから編田君の声が聞こえた。
「髪、踏まれたんや」
「アハハハ」
糸井君は、何の反応も示さずに髪を切り続ける。
遠くの方で、タタンタタンという電車の音が聞こえる。
私は少しだけ顔を傾け、外に意識を向けた。
「東京はうるさすぎんねんなぁ」
その時、部屋の中が本当に静かになった。
糸井君がハサミを休めて、外の方を見ていた。
後ろで編田君が立ち上がった。窓越しまで進んで、東京の夜を見上げた。
三人は、東京の夜の真下にいた。
「いつ頃、大阪に戻られるんですか」
編田君が振り返った。
「契約してる仕事が全部終わってからやな。だいたい4月位と思てる」
「そうですか」
「糸井君。あんたのハサミの音、聞けんようになるの寂しいわ」
糸井君のハサミが再開する。口を少しだけ突き出しながら。
編田君も定位置に腰かけた。
いつもの三人の時間に戻る。
「なんやろな。東京離れて、他のところで髪切ってもらうの想像でけへん。……なぁ、あんたら大阪来てもらえん? ふたりがいれば、大阪、ちょっとは静かになる気するねん」
編田君が本を閉じて顔を上げたのが、鏡越しに見えた。
「なんや、編田君まで喋らんと。糸井君。君は徹底してるな。ホンマ面白いわ」
糸井君のハサミが止まった。
「ごめんな。うち、喋ってまうわ。今日くらいは黙っといて、雰囲気に浸っとこうと思てたんやけど、あかん。喋ってまう。でも、しゃあないねん。これが私やもん。ずっと喋ってきたんやもん。つまりな、うちな、好きやねん。ここが。この席で髪切られてることが。二人と静かにしてることも。二人とお喋りすることも。あ、糸井君は喋らんから割愛や。なんやろ、忘れられん。涙出てくる。うわっ、髪切られながら泣いとる。断髪式かっちゅーねん。もう嫌。こんなの……」
「俺、笑美里さんの声、好きや。忘れられん」
「……糸井君? 君、喋ったん⁉ 今、喋ったよな⁉」
糸井君は、ドライヤーを手に取り、スイッチを入れた。
「アホ! ドライヤー止めて。うるさい。編田君、今聞こえたよな⁉」
「喋りましたね」
「しかも好きやって、あんた関西人やったんか!」
「ああ、そういえば要、大阪出身でした」
「なんやねん。そのカミングアウト。それやったらええやん。糸井君。もう一緒に大阪戻ろ。編田君も付いてきいや」
糸井君はドライヤーを入れ直し、私の髪に当てる。
「ちょっと、糸井君。ブォーあらへん。無視か。編田君もちょっと聞いて!」
「うちら、またここで頑張っていこう言うてるんですけど」
「そやな」
「でもアンタ、東京に未練あるんちゃう?」
「ないよぉ。大阪で生まれた女に何言うてんの」
「この子な、東京でお洒落な美容院見つけて、寂しい寂しい言うてたんですよ」
「大丈夫。きっぱり踏ん切りついとるから」
「ホンマ? やっぱ東京がええとかならん? 大阪一筋で頑張れる?」
「……当り前や。約束するわ」
「もし約束破ったらどうすんの?」
「……そしたら、しゃあない。頭丸めるわ」
「もう結構丸まってるやん!」