背の高い男が、のっそりと奥のほうから現れた。
それが糸井君だった。
軽快な音とともに、髪が床に落ちていった。
「ちょっと……」
おまかせとは言ったものの、糸井君は躊躇いがなかった。
一言も喋らず、黙々と髪を切っていく。
後ろに座っている編田君に鏡越しに目をやるが、本を読んでいる。
(まぁ、ええわ。なるようになれ、や)
ハサミの音がするたびに、鏡の中の自分が新しくなっていく。
そんな自分の変化が、他人事のように思えてならなかった。
一通りの作業を終えた糸井君は、私の後ろから鏡を合わせた。
私と、鏡の中にいた私が、ようやくひとつになったような気がした。
「……ああ、ありがと。おおきに」
言葉の発し方を忘れていた。
こんなに長い時間喋らなかったのは、久しぶりのことだった。
「東京でな、自分だけの隠れ家を持つっていうのが憧れやねん」
「雑誌で特集されてる、大人の隠れ家いう奴な」
「でな、ついに見つけてん」
「ホンマ⁉」
「まだほとんど知られてないと思う」
「へぇ。教えてやぁ」
「暗くてこじんまりしててな、落ち着くとこやねん」
「ええやん、ええやん」
「知りたい?」
「知りたいわぁ」
「うちの最寄駅から3つ目の駅やねん」
「うんうん」
「駅前の大通りをまっすぐ行って、2つ目の角を右折すんねん」
「……ほいで」
「右手にコンビニあるやん。その隣のアパート201号室やねん」
「……あたしんちやん。」
「まだほとんど知られてないと思う」
「当り前や!」
「でもママがちょっとイマイチでなぁ」
「誰がママやねん!」
「うるさくってなぁ、マダム」
仕事の合間を縫って、月に1回、多い時で2回、美容院に通った。
行くのは決まって夜の遅い時間。
席はひとつしかないので、店内はいつも3人だった。
糸井君が髪を切っている時、後ろから編田君の小さなくしゃみが聞こえた。
「あ、すみません」
「編田君。ここってBGM流さんよね。なんで?」
「ハサミの音、聞こえないじゃないですか」
「ハサミの音?」
「俺、要の音、好きなんですよ」
「糸井君、聞いた? 今、君褒められたんよ」
糸井君は気にも留めず、髪にハサミを入れている。
でも糸井君の耳にこのやり取りが届いていることは、私にもわかるようになった。感情が動くと、少しだけ口が前に突き出るのだ。
「編田君。糸井君はホンマに全然喋らんのな」
「全然ってわけじゃないですけど、まぁ、ほとんど喋んないですね」
「最後に喋ったんはいつなん?」
「いつだったかなぁ」