こんなことを言われるのは初めてだった。どんな美容師にだってこの黒髪を褒められて、それで終わりだったのに。鏡の中に自分の戸惑った顔を見つけて、声を詰まらせた。
「私の顔、そんなに見てくれたんですか」
「もちろんです。お客様に似合うように髪を切らないといけないですから」
不思議そうな顔をする永野さんをみつめて、私は自然とうなずいていた。
永野さんはうれしそうに櫛で私の長い髪を梳かし始めた。そしてハサミが入っていく。軽い音を立てて、艶々した黒髪がぱらぱらと床に落ちていった。ふぅ、と息を吐き出していた。肩の荷が下りた気分だった。それと同時に私は永野さんにいままで誰にも話してこなかったことを明かしたい気持ちになっていた。水槽の金魚を見て、浴衣姿のあの子が浮かんだ。
「私、友達がいたんです。ううん。いまも友達だと思うけど、気まずくなってしまって。でも、その子だけだったんです。私のことちゃんと見てくれてたの。他の子たちは私のこと、大人しい黒髪ロングの子って覚え方するんです。でもその子は私のことをみて、本当はひねくれものってわかってくれた。それに、永野さんみたいにショートも似合うよって言ってくれた」
永野さんは手を止めることなく、うんうんとうなづいてくれた。頭がだんだんと軽くなっていくにつれ、こらえてきたものがあふれ出していった。
「だから、私もあの子の顔をよく見てた。同じ人を好きになってしまったって気づいたときはすごくつらかったし、あの子が好きな人のために黒染めした髪を伸ばしたいって言った時は苦しかった。そのままが一番似合うよって本音を言ったら、意地悪になってしまうから」
顎のあたりまで髪を切られた見知らぬ私は泣き出しそうな顔をしていたけれど、いままでよりずっと素直に見えた。永野さんは髪を整えながら、にっこりと笑った。
「ずいぶん、いい顔になりましたね。よく似合ってますよ」
頬が赤くなるのがわかった。「ありがとうございます」と言ってから、「ちょっと子供っぽすぎませんか」と照れ隠しで聞いてみた。
「彼氏は大人っぽいのが好きみたいだから」
「あなたが気に入ったのなら、きっと彼氏さんも喜んでくれますよ」
「そっか。彼氏が気に入らないなら振っちゃおうかな。だって私じゃなくて黒髪ロングが好きだったってことでしょ」
私の軽口に永野さんはきょとんとしてから、「ええ、そうしてください」と微笑んだ。エアコンの風がうなじに当たって気持ちよかった。
帰り際、見送られる私は永野さんに「金魚、どうして好きなんですか」と聞いてみると、永野さんは困った顔をした。
「うーん。よく見ると一匹一匹個性的な顔してるからですかねえ」
「失礼ですけど、私には同じ顔に見えます。柄でしか判別できないな」
「愛情を持って顔を見つめるとわかりますよ、嬉しそうだったり、悲しそうだったり」
店先の水槽の金魚をじっと見つめると、すべての金魚がエサが貰えると思ってまた口をパクパクさせながら近づいてきた。私にはやっぱり顔の違いがわからないけれど、永野さんにははっきりとわかっているのだろう。
美容室を出れば、またじりじりと熱さが身を包んだけれど、頭も足取りも軽いままだった。私はポケットからスマホを取り出すと、ずっとかけていなかった番号に電話をかけた。
「もしもし、あのね、いまちょっといいかな」
ひまわり柄の浴衣を着た彼女が電話をし終わると、私の方を向いた。ミルクティー色に染めたボブにパーマをかけている。あの夏祭り以前と同じ髪型に戻っていたが、なぜか別人のように見えた。
「ごめん。彼氏、今日遅れるって。花火間に合わないと思う」
「ううん。先輩も遅れるから気にしないで」
私は金魚の入った袋をそっと持ち上げた。二匹の赤い小さな金魚が驚いて泳ぎ回った。彼女が「どうするの、それ」と聞いてくる。
「飼うの?ああ。でもすぐ死んじゃうかな」