ガラス越しに中の様子を恐る恐る覗く。すぐさま、茶髪の若い男の美容師と目が合った。私はなぜか気まずくなって水槽の後ろに隠れた。目の前で黒い金魚が口をパクパクさせている。
「ああ、おはようございます。やってますよ」
さっきの美容師が慌てて出てきて、ドアに下がった「CLOSED」のサインプレートをひっくり返した。
戸惑いながら「いや、違うんです」と言って逃げようとしたけれど、美容師はうれしそうに「暑いですね、どうぞ中へお入りください」ととびきりの笑顔でドアを開いた。涼しい風が頬を撫でるのが心地よい。私は吸い寄せられるようにいくつも水槽が並んだ美容室の中へと入っていった。
「金魚、お好きですか」
永野と名乗った美容師は、私が席に着くと嬉々としながらそう聞いた。
「いや、別にそういうわけじゃ」
「ええー、違ったんですか」
永野さんが申し訳なさそうに頭をかくのをみているとこっちが申し訳なくなってくる。そもそも今日は美容室なんて来るつもりは毛頭なかったのだ。
「あ、いやでも。嫌いじゃないですよ」
「そうですかあ。よかったら一匹連れて帰ってくださいね」
私は永野さんの言葉に驚いて思いっきり首を横に振った。
「いやいや。私には無理です。金魚ってすぐ死んじゃうし」
永野さんは「そんなことないですよ」と微笑みながら、やっとヘアーカタログを出してきた。それを受け取ってパラパラとみるけれど、私には必要ないものだった。ぱたんとカタログを閉じてすこしうつむいてしまったのを悟られないように顔を上げた。鏡のなかで艶のある黒髪にすぐに目が行く。
「さ、今日はいかがいたしましょうか」
「あ、じゃあ、いまの髪型のまま、すこし梳いてもらって…」
そういってカタログを返すと、永野さんは何か言いたげだった。鏡越しにみる水槽のなかで赤い金魚が泳いでいる。不器用そうな永野さんは優しい声で切り出した。
「せっかくですし、カタログをゆっくりご覧になってお決めくださいね」
「え」
「え、あの、嫌でしたか」
また申し訳なさそうな顔をしている永野さんが鏡に映った。おしゃべりが下手な美容師って相当珍しい気がするけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。「どうでしょう」とカタログを差し出した永野さんから、それを自然に受け取っていた。1ページずつカタログをめくっていったなかで、ふと手が止まった。
「あ、それいいじゃないですか」
視線が一枚の写真に集まったとき、思わずカタログを閉じてうつむいた。水槽のエアーの音が聞こえてくる。そのとき、永野さんの柔らかい声が後ろから聞こえた。
「かわいいと思いますよ、前髪ありのボブ。夏っぽくて」
私は頬が熱くなっていくのを感じていた。そして、「だめなんです」と消えそうな声で返事をしていたことに気づいて、はっとした。
「そんなことないですよ」
永野さんの言葉がベールをかけたようにふわっと聞こえてきた。
「髪型にだめなんてことないです。お客様が選んでいいんです。どれを選んでも僕が似合うようにします」
気がつくとぼんやりと艶々した黒髪を見つめて、どうしてこの髪型にしてたんだろうと考えていた。みんな褒めてくれるから。髪が綺麗だって。切ったらもったいないって。そっと視線をあげて、鏡越しに永野さんをみつめた。永野さんは優しく語りだした。
「お客さまは大人っぽくみられるお顔立ちだと思うんです。でも、ピンク色のリップがよく似合っているし、コーディネートをみても、もしかしたらかわいい髪型もお似合いになるんじゃないかって思いまして」