帰りの時間を見計らって三十分も前から玄関のまわりをうろちょろしていた弟が、玄関ドアの鍵の音を聞くや否や走り出して、一番に出迎えた。
「ありがとう歩、もう大好き!」
そんな弟を抱き締めて頭をくしゃくしゃと撫でていた母が、遅れて出迎えた私に気付いて顔をあげる。本来の艶と潤いを取り戻したロングヘアが滑るようになめらかに肩の向こうに流れていった。
「ただいま、璃子! お留守番ありがとう。ねぇ、どう? 似合ってる?」
母は告白の返事を待つ少女のような期待と不安を織り混ぜた顔をして、そのピンクベージュに染め上げられた髪の毛をかきあげた。同時に広がったグリーンアップルのシャンプーの香りが心地いい。
「別に、いいんじゃない。前より明るくて、春らしいし」
「よっし! 美容師さんは褒めてくれたんだけど、やっぱり璃子の感想聞くまではねー。よかったぁ」
そんなに褒めたわけでもないのに、パッと花が咲いたように笑う母に、確かにその柔らかな暖かさをまとった髪色はよく似合っていた。自然と自分の真っ黒の髪の毛に手がのびる。ごわごわと硬くもつれて指が引っかかる。似てない髪質にハァーっとため息が漏れた。
「そうだ、璃子も中学生になったんだし一緒に美容院行ってみない?」
「いいよ、私は。どうせお母さんみたいにはなれないし」
「美容師さんってすごいんだから。魔法使いみたいなのよ、どんな髪も鋏一つでパパパッて!」
指を鋏に見立てて身振りを交えて興奮気味に話す母に「ママ、シンデレラだもんね! キレイなママ、パパにも見せてあげたいね」と弟が可愛く答えた。
「そうね、あとでみんなでテレビ電話しよっか。でもその前にますば晩御飯! 今日はハンバーグよ! 昨日ひき肉が安かったからね」
十二時の鐘が鳴るように、その一言で魔法の時間は終わりを告げた。母はあっという間に戦闘服のエプロン姿に変身して、飾り気のないヘアゴムで、先ほどまで誇らしげに輝いていた髪の毛を一気に縛り上げた。キッチンに立ついつもの見慣れた母の後ろ姿に「おかえり、お母さん」とこっそり声をかける。
揺れるポニーテールからは、まだグリーンアップルの特別な香りが香っている。それでもフライパンからジュって音が聞こえた頃には、それはハンバーグの香ばしい香りに変わっていった。
「いらっしゃいませ!」
母に連れられて入ったのは、白を基調としたシンプルなデザインに、ブラウンで統一された家具がシックで落ち着いた雰囲気を漂わせるお店だった。二人の店員さんがこちらに向かってにこやかに微笑んでいる。
「こんにちは。一時に予約している、三好です」
「お待ちしておりました。うわー初めまして。お母さんを担当させて頂いています川原です。よろしくお願いします」
ニコッと人好きのする顔で私に向かって頭を下げたその女性は、明るい色の髪を頭のてっぺんでゆるくお団子ヘアにまとめ、全身に気取らないお洒落さをまとう、如何にも美容師さんといった感じの人だった。
「よろしくお願いします……」
緊張でちょっと声が上擦った。美容院は、近所の顔見知りのおばちゃんがやっているところにしか行ったことがない。母の粘り強い誘いに根負けして、今回初めて一緒にカットに来ることになったのだ。
「この子が娘の璃子です。今日は二人いっぺんに予約しちゃってごめんなさいね」
「いえ、こちらは全然大丈夫ですよ。ちょっとお待たせしちゃうかもしれないですけど」
「それは気にしないで。今日は歩がお泊まり保育だからゆっくりお茶でもして帰るつもりだし」