上り坂では足元を見ていて、美容室に到着したときすぐには気づかなかった。喫茶店のように見えるそこは、間違いなく里奈に教えてもらった住所だ。もっと「キラキラした場所」を想像していた私は少し安堵する。センスという高貴なスキルが細部まで行き届いた美容師や空間を前にすると、どうにも委縮してしまう。髪を切りに来たのに場違いな所に来てしまったという後悔にさいなまれるとともに、何かわからない「違い」が浮き彫りになってしまう空気にいたたまれなくなる。
「予約した、宮本ですが」
ちりんとベルのついた木製のアンティーク風の扉を開けると、ひげを顎にたくわえた40代くらいの男性がいた。紺色のニット帽をかぶり茶色のサロペットを着ているが、やはりどことなく喫茶店にいそうな雰囲気を醸し出している。
「お待ちしておりました。どうぞ」
客は、私以外に誰もいなかった。エスプレッソのように濃い茶色の木材が床に張られた店内には、同じく深い茶色の革で仕立てられたセットチェアが1台と、白雪姫の継母が毎日覗いていそうなロココ調の大きな楕円形の鏡が置いてあった。窓ガラスは三日月と太陽がデザインされたステンドグラスになっており、外の陽をほんのりと通している。促されるままにセットチェアに腰をかけると、ひげの美容師さんはにっこりとほほ笑んだ。
「担当させて頂きます、樺月と申します。よろしくお願いいたします。本日はどのような髪型がご希望ですか?」
「うーん…華やかさはあって、でも朝のセットはまとまりやすくしてほしいんです。髪色は…おまかせします。根本の髪の毛がプリンになって伸び切っちゃってて恥ずかしいんですけど」
「承知しました。まずはカラーから行っていきたいのですが」
そういいながら、樺月さんはさまざまな髪色の見本がのったカラーチャートを見せてくれる。
「オリーブブラウンという色味が宮本さんの魅力をより引き出してくれると思います。透明感がありながら、自然光が当たるとオリーブのような深い色味が楽しめます」
初めて聞くその色の名前に心が躍った。
「お願いします」
樺月さんは無駄のない動きで私の髪にカラー剤を塗っていった。全体に色を塗り終えると少し時間を置きますね、という言葉とともに奥へと消え、温かい玄米茶と赤いパッケージに白い英字の入ったクッキーを持ってきてくれた。いくらかの時間がたった後に樺月さんは真剣な眼差しで髪の色の入り具合を確認し、シャンプー台へ案内してくれた。シャンプー台のすぐそばにある木製の棚には、14色の水彩色鉛筆のようなグラデーションのボトルが並べられていた。棚を眺めていることに気づいた樺月さんは、目じりにしわを寄せながら説明してくれる。
「そちらのシャンプーやヘアトリートメントは、すべてお客さまの髪質によって使い分けているんです。同じ人間が一人もいないように、シャンプーたちにも個性があるんですよ」
樺月さんのシャンプーたちという呼び方が、好きだと思った。シャンプー台に横になって髪を濡らしてもらうと、樺月さんは独り言のようにさりげないトーンで伝えてくれる。
「宮本さんにはこちらのシャンプーとヘアトリートメントがぴったりかと思います」
樺月さんが手に取ったボトルは、冴えたような黄みがかった赤色をしていた。よどみを感じない凛としたその色は、背筋がシャンとするような、それでいてまっすぐな色だった。