シャンプーの泡が私の髪に触れる。
ひだまりの中にいるような、桜の香りがした。
「宮本さんは、美容室に来られるのは久しぶりですか」
「はい。仕事でいっぱいいっぱいで」
「そうなんですね。先程、根本の髪の毛が伸びていて恥ずかしいとおっしゃっていましたが」
「美容師さんに、髪の手入れが行き届いていないって思われるのが恥ずかしいなって…。髪もぱさぱさですし、どうなのって感じですよね」
「私はそうは思いませんよ」
「え?」
「だって、伸びた髪の毛は、宮本さんが日々を生きた証じゃないですか」
樺月さんは洗いあがった私の髪の毛を優しくタオルで包み込んだ。セットチェアに移動して丁寧に髪を乾かしてくれた後に、オリーブブラウン色に綺麗に染まった髪の毛を満足そうに眺めながら、繊細な手つきで迷いなく、私の髪にはさみを入れる。
「私たち美容師は、いつだってお客さまと対等です。ただ、目の前のお客さまを綺麗にすることに真剣なんです。だから、どんなことでも気兼ねなく仰ってください」
樺月さんの眼差しは、私の髪の毛1本1本に注がれている。
「もし、一度きりの出会いだったとしても、偶然という奇跡に導かれて出会った、同じ場所を一緒に目指す旅人同士だと思っています」
しゃき、しゃき。
音が静かな空間で浮き上がる。
今まで、髪を切ってもどんな色で染めてもしっくりくる感じがなかったのは。
私が私自身を認めてあげられていなかったからだ。
「変えるのは私たちじゃない。お客さま自身なんです。私たちは、そのほんのきっかけを作らせてもらえるのだとしたら、こんなに幸せなことはありません」
できた、とつぶやいた後ににっこりと笑った鏡越しの樺月さんと目が合う。
「くせ毛さんにはくせ毛さんにしか出せない、可愛いニュアンスや質感もあるんですよ」
しゃき。髪を切っていないのに、何かがはがれ落ちる音がした。
「何にも縛られずに楽しんでください、今を」
ちりんとベルのついた木製のアンティーク風の扉を開けると、目の前には、数時間前の、過去の私が歩いてきた道があった。
これから15分の道のりを歩き、電車に乗って、いつもの日常に戻る。
オレンジ色を灯す下り坂の電柱の向こうには、白や黄色や青に光る町があった。夜を迎えようとしている気配とぬるくて少しの寒さを残した風を感じながら、いつの間にか早足になっていた。
風を切る。体温が少しずつ上昇する。
髪が揺れるたびに、春の花びらの匂いがした。